第9話:地獄の皿洗いと、飛べないジャガイモ
王都の喧騒が引き、夕闇が王宮の尖塔を包み込む頃、厨房の一角からは絶望に満ちた呻き声が漏れていた。
「……死ぬ。もう、指の感覚が……ない……」
声を絞り出したのは、つい数時間前まで「鳳凰の包丁」を名乗って広場で大ぼらを吹いていた男、ハンスだ。彼は今、華やかな朱色のマントを脱ぎ捨て、泥にまみれたエプロン姿で山のような皿と格闘していた。
「おい、手が止まってるぞ。その皿の縁に1ミリでも油膜が残ってたら、明日の賄い(まかない)は抜きだ」
ツヨシは冷徹に告げながら、傍らに置いた一振りの包丁を静かに手に取った。
それは、第8話の死闘の末に真の姿を現した伝説の銘――『鳳凰』。
一見すると漆黒の刀身だが、角度を変えれば揺らめく炎のような紅い輝きを放つ。元殺し屋であるツヨシの鋭い殺気と、料理人としての情熱が共鳴した時のみ、その真価を発揮する魔刀である。
「ツ、ツヨシさん……! 私は役者なんです! こんな、スライムの粘液がこびりついた大鍋を洗うなんて、人道的じゃない!」
「黙れ。食えもしない飾り包丁で『鳳凰』の名を騙った罰だ。お前が『鳳凰の守り』と呼んだあの大根の盾……あれを片付けたのは誰だと思ってる? 食材を無駄にした報いは、労働で返せ」
ツヨシの言葉に反論の余地はなかった。第8話で放たれた「千切り大根の盾」は、ゴーレムの攻撃を完璧に防いだが、その残骸は広場を埋め尽くすほどの量だった。ツヨシはそれを全て回収し、ハンスに「洗浄と分類」を命じたのだ。
「いいかハンス。お前が洗っているのはただの皿じゃない。次に鳳凰が舞い上がるための、キャンバスだ」
「……かっこいいこと言ってますけど、結局ただの皿洗いですよね?」
「口を動かす暇があるなら手を動かせ。次の食材が届いたぞ」
厨房の裏口から、屈強な兵士たちが二人掛かりで一つの木箱を運び込んできた。箱には「厳重注意:衝撃禁止」と赤字で書かれた魔法の封印符が貼られている。
「ツヨシ殿、例のブツだ。北の『浮遊山脈』で採れた……『スカイ・ポテト』だ」
兵士たちは、爆弾でも扱うかのような手つきで箱を置くと、逃げるように去っていった。
「スカイ・ポテト……?」
ハンスが興味津々で覗き込む。箱の中には、淡い青色に発光し、今にもふわふわと浮き上がりそうなジャガイモが転がっていた。しかし、その表面からは時折、バチバチと小さな放電のような火花が散っている。
「こいつは厄介な代物だ。魔力を過剰に蓄えすぎて、少しでも振動を与えたり、切り方を間違えたりすると、その瞬間に大爆発を起こす。文字通り、天国へ召されることになる食材だ」
ツヨシの目が、殺し屋時代の獲物を狙うそれへと変わった。彼は『鳳凰』を抜き放つ。鞘から滑り出た刃が、チリリ……と鈴の鳴るような鋭い音を立てた。
「そんな危険なもの、料理するんですか!? 捨てましょうよ!」
「断る。エルゼ王女から『ふわふわして、それでいて刺激的なポテトサラダが食べたい』という無茶振りが来ている。あの偏食王女を黙らせるには、この暴れ馬を乗りこなすしかねぇ」
ツヨシは『鳳凰』の重みを感じながら、まな板の前に立った。
包丁の峰を使い、微かに浮き上がろうとするポテトを優しく、それでいて確実に固定する。
「ハンス、見てろ。これが真の『鳳凰』の裁きだ」
ツヨシが包丁を振り下ろそうとした瞬間、スカイ・ポテトが危機を察知したのか、激しく発光した。
ビキィッ!
ジャガイモの表面に亀裂が入り、蓄積された魔力が暴走を始める。厨房の空気がパチパチと震え、ハンスは悲鳴を上げて流し台の下に潜り込んだ。
「爆発する! 逃げろぉぉ!」
「逃げる必要はねぇ。この『鳳凰』は、魔力そのものを喰らう」
ツヨシの腕が、視認できないほどの速さで動いた。
伝説の包丁『鳳凰』の刃が、空間を切り裂く。ジャガイモの「魔力回路」とも言うべき目に見えない力の流れを、ミリ単位の精度で見極め、断ち切っていく。
それは料理というよりは、精密な手術、あるいは爆弾解体作業に近かった。
「必殺・ツヨシ流――『鳳凰の羽抜き』」
包丁の先が、ポテトの中心核にある「暴走魔石」の隣をかすめる。余剰な魔力が、切り裂かれた隙間から美しい光の帯となって溢れ出した。ツヨシはその光を、包丁の動きで誘導し、まるで鳳凰が羽を広げるかのように、円を描いて空中に逃がしていく。
バチンッ!
最後の火花が散り、厨房に静寂が戻った。
まな板の上には、先ほどまでの荒々しさが嘘のように、しっとりと濡れた、透明感のある青いジャガイモの切り身が並んでいた。それはもはや浮き上がることはなく、ただひたすらに美味そうな光沢を放っている。
「……信じられない。爆発のエネルギーを、全部『熱』に変えて、その場で加熱したのか?」
流し台から顔を出したハンスが、驚愕で目を見開いた。
「ただ切るだけじゃない。摩擦熱と魔力の転換で、ポテトのデンプンを最高の状態にアルファ化させた。これで、外はカリッと、中は爆発的な旨味を秘めた究極のポテトサラダができる」
ツヨシは、手早くマッシュしたポテトに、第8話で使った「千切り大根の盾」の残りを、さらに細かく刻んで和えた。シャキシャキとした食感と、ポテトの濃厚なコク。さらに隠し味として、王宮の高級ワインを一垂らしする。
「よし、完成だ。名付けて『鳳凰の休息・スカイポテトサラダ』」
完成した一皿を携え、ツヨシは食堂へと向かう。残されたハンスの前には、再び山のような汚れた皿が。
「……あの、ツヨシさん? 私も一口……」
「お前の分は、その鍋の底にこびりついた焦げを全部落としてからだ」
「地獄だ……ここは料理人の厨房なんかじゃない……暗殺者の拷問部屋だ……!」
ハンスの嘆きは、深夜の王宮に虚しく響いた。
その頃、食堂ではエルゼ王女の歓喜の叫びが上がっていた。
「ツヨシ! これ、口の中でジャガイモがダンスを踊っているわ! まるで鳳凰が私の舌の上で羽撃いているみたい!」
ツヨシは、王女の笑顔を背中で受け止めながら、ふっと口角を上げた。
「鳳凰、ね。……まぁ、偽物の役者よりは、マシな仕事ができたみたいだな」
ツヨシの戦いは終わらない。明日はどんな暴れ馬(食材)が届くのか。そして、伝説の包丁『鳳凰』は次に何を斬るのか。
異世界の夜は、まだ始まったばかりだった。




