第62話
ドクン、ドクン。
耳元で響く、規則的で力強い心音。
春の陽射しに温められたアルトの胸板から、微かな汗の匂いと、大人の雄としての熱がダイレクトに伝わってくる。
「……あれ? なんじゃ、胸の奥が、変に熱いぞ……」
布団の上でアルトの腕に抱き込まれたレムが、小さな手でシャツの胸元をギュッと握りしめ、顔を限界まで赤くしてうわ言のように呟く。
「どうしてこんなにドキドキするのだ……っ」
ネリアも潤んだ瞳でアルトの無防備な首筋を見つめ、無意識に自分の熱い唇に指を当てていた。
明確な一人の男への恋心へ。二柱の少女の奥底で、神と冥界のシステムが致命的なバグを起こし始めている。
ギギギギギギッ。
背後の縁側から、窓ガラスが軋む嫌な音が響いた。
振り返ると、圧縮城の巨大な窓ガラスに、サクリア、ユエル、ミサリア、イルマ、タチアナの五人が顔を限界まで押し付け、血の涙を流しながらこちらを睨みつけている。
「アルトの胸を堪能するなんて、万死に値するわ……!」
「ズルいズルいズルいっ! 私も一緒に寝転がるぅっ!」
「お姉ちゃん、深夜のつまみ食いより白昼堂々の抜け駆けのほうが罪が重いと思うの」
大人ヒロインたちの極限の嫉妬が物理的なプレッシャーとなって窓ガラスを叩き割ろうとした、まさにその時だった。
バリィィィンッ!
庭の上空の空間がガラスのように砕け散り、空を覆うほどの巨大で緻密な賢者術式が幾重にも展開された。
オゾンの焦げる匂いと冷たい風が、春の穏やかな空気を切り裂く。
光の渦の中から、銀色のツインテールを揺らした小柄な少女が、身の丈ほどの杖を構えてふわりと舞い降りてきた。
「見つけたわよ、お兄ちゃん! 魔王や邪神たちに誑かされているって聞いて、この大賢者リゼが助けに来てあげたんだからねっ!」
ビシッと杖の先を向けて見得を切る少女。
アルトは布団からゆっくりと身を起こし、宙に浮く彼女を見上げた。
「……リゼか。なんだ、少し見ないうちに随分と背が伸びたな」
「なっ——子供扱いしないでよ! 私はもう立派な」
トン。
アルトが虚空を蹴って一瞬で距離を詰め、空中に浮かぶリゼの頭に無造作に大きな手を置いた。
「立派な賢者になったんだな。ずっと、一人で頑張ってたんだろ。偉かったな」
「あうっ」
頭を優しく撫でられた瞬間、大賢者の威厳もツンデレの防壁も、春の雪のように一瞬にして溶け落ちた。
リゼの瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出し、彼女は持っていた杖を放り投げてアルトの首に勢いよくダイブする。
「うわぁぁぁんっ、お兄ちゃんのばかぁ……っ! ずっと、ずっと会いたかったんだからぁ……っ!」
大泣きしながらアルトの胸にすがりつく最強のブラコン義妹。
その光景を見た縁側の五人、そして布団に残された二人の顔から、一切の表情が消え失せた。
「……また新しい泥棒猫?」
「いや、あれは正当な血の繋がらない妹枠……つまり、姉である私の最大のライバルよ!」
ミサリアの瞳にどす黒いハイライトが宿り、サクリアの極大魔法が唸りを上げる。
春の穏やかな庭先に、致死量の魔力と殺意、そして大賢者の甘ったるい泣き声がカオスに交じり合う。
やれやれ。
のどかなスローライフの庭先には、今日も新たな嵐の種が蒔かれたらしい。




