第59話
朝の冷たい水が、シンクに心地よい音を立てて落ちる。
石鹸の爽やかな香りが漂う洗面所で、銀縁眼鏡を完璧な角度で押し上げたイルマが、一枚の布を愛おしそうに揉み洗いしていた。
「水温三十度、洗浄力と布地の保護を両立する完璧な力加減。これでアルト様のお下着は、私の手によって完全無菌の聖布へと生まれ変わります」
「ちょっと公務員! 何しれっとアルトのパンツを洗って独占してるのよ!」
洗面所の入り口で、歯ブラシをくわえたユエルが目を吊り上げた。
「専属メイドとしての正当な職務です。剣を振り回すだけのあなたには、この繊細な繊維保護のタスクはこなせません」
「はあ!? 私の剣撃なら、繊維の隙間の汚れだけをミリ単位で斬り落とせるもん!」
「物理攻撃で布地を傷めるなど言語道断。脱税並みの重罪です」
パチパチと青白い火花が散る洗面所。
そこへ、寝癖をつけたままのアルトが欠伸をしながら顔を出した。
「朝から元気だな、二人とも。……って、イルマ。本当に俺のパンツ洗ってるのか」
「おはようございます、アルト様! はい、国家の威信にかけて、一枚のシミも残しません!」
満面の笑みでパンツを掲げる元特級税務調査官。
アルトは頭を掻き、小さくため息をついた。
「もういいよ、洗濯機に入れるから。それより姉さんの朝ご飯ができてるぞ」
アルトが二人の頭をポンと撫でると、殺気立っていた空気が一瞬でふにゃりと溶けた。
リビングに向かおうとした、その時だ。
ガチャリ。
玄関の重い扉が開き、鈍い金属音が廊下に響いた。
「……アルト、戻ったぞ……」
かすれた声と共に現れたのは、泥とススで銀の鎧を汚したタチアナだった。
目の下にはイルマ以上の濃いクマが刻まれ、その美しい銀糸の髪はボロボロに乱れている。
「タチアナ? 昨日から王城に報告に行ってたんじゃ……」
「ああ。お前たちがブラックギルドを物理的に消滅させたせいでな。王都の地下地図の書き換えと、国王への事後報告で……徹夜だ……っ」
ドサッ。
タチアナの膝が折れ、冷たいフローリングの床に崩れ落ちた。
アルトが慌てて駆け寄り、その体を抱き起こす。
「おい、大丈夫か。体がすごく熱いぞ」
「平気だ……騎士団長たるもの、三日徹夜の書類仕事など……っ。ただ、少しだけ、めまいが……」
強がる唇が微かに震え、タチアナの意識がふっと途切れた。
「姉さん! タチアナが倒れた! 水と毛布を!」
「大変! すぐにベッドに運んで!」
キッチンから飛んできたミサリアの指示で、アルトはタチアナを軽々と抱き上げ、寝室のベッドに寝かせた。
分厚い鎧を脱がせると、下に着ていた薄いスリップドレスだけになる。
汗で肌に張り付いた白い布越しに、彼女の豊かな起伏と、熱を持った柔らかな体温が伝わってきた。
「ただの過労と風邪ね。お姉ちゃんがすぐに栄養満点のお粥を作るわ」
ミサリアが小走りで部屋を出ていく。
アルトは冷水で絞ったタオルを、タチアナの熱い額にそっと乗せた。
「んんっ……」
熱にうなされ、タチアナが苦しそうに寝返りを打つ。
その拍子に、アルトの服の裾をギュッと強く握りしめた。
「行くな……置いていかないでくれ……っ。私は、強くあらねばならないのに……」
うわ言で漏れる、騎士としての重圧と孤独。
いつも凛々しく振る舞う彼女の、本当の脆い素顔だった。
アルトは握られた手を優しく包み込み、ゆっくりと親指で撫でた。
「どこにも行かないよ。お疲れ様、タチアナ」
その温もりに安心したのか、タチアナの荒い呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
「お待たせ、アルト。世界樹の若葉と霊鳥の卵を使った特製お粥よ」
湯気を立てるお椀を持ったミサリアと、心配そうに覗き込むサクリアやユエルが部屋に入ってくる。
アルトはお椀を受け取り、木のスプーンで一口分をすくって、ふーふーと息を吹きかけた。
「タチアナ。起きられるか。少しだけでも食べた方がいい」
「あ……アルト……」
薄く目を開けたタチアナの口元へ、アルトはそっとスプーンを運んだ。
熱で朦朧とする中、彼女は無防備に口を開け、お粥をぱくりと飲み込む。
瞬間。
彼女の頬がカァッと限界まで赤く染まった。
「……あ、甘い。それに、体が……熱い」
特製お粥の過剰な回復バフと、アルトからの直接のあーん。
極限まで疲労していたタチアナの理性を焼き切るには、それで十分すぎる破壊力だった。




