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第58話

ギルドハウスのリビングに、朝の乾いた風が吹き抜ける。

コタツの上の茶柱が立つ湯呑みの横で、分厚い魔導バインダーがドンッと叩きつけられた。


「当事業所の監査、ならびに解体作業の事後処理はすべて完了しました」

「お疲れ様。それじゃあイルマも、やっと国に帰ってゆっくり休めるな」


アルトが労いの言葉と共に温かいお茶を差し出す。

しかし、銀縁眼鏡の奥の瞳が、なぜか激しく動揺して泳いだ。


「えっ……あ、いえ。その」

「ん?」

「事後処理は終わりましたがっ。アルト様の労働環境が再び悪化しないか、二十四時間体制で継続監視する義務が私には残されています!」


顔を真っ赤にして早口で捲し立てる。

冷徹な特級税務調査官の姿はどこにもない。そこにあるのは、ただアルトの傍に居座る口実を必死に探す、恋に落ちた公務員の顔だった。


「いや、監視なんてなくても俺は毎日コタツで寝てるだけだぞ」

「だ、だめです。私が家事という名の監査業務をすべて代行します。アルト様は指一本動かさないでください」


イルマはスッとエプロンを身に着け、バケツと雑巾を手に立ち上がった。


「まずはリビングの床を鏡面仕上げに磨き上げ、塵一つない無菌空間を」

「ああ、掃除ならもう終わったよ。ほら」


アルトがコタツから手を伸ばし、軽く指を鳴らす。

パチン。


軽い破裂音と共に、無自覚な浄化魔法の波紋が部屋中を駆け抜けた。

フローリングの傷や汚れが一瞬で消滅するどころか、ただの木の板が国宝級の輝きを放つ神木へとクラスチェンジし、室内が世界樹の放つマイナスイオンで満たされる。

神話級の空間浄化。


「…………」


イルマの指から、ポロリと雑巾が滑り落ちた。


「な。どうだ、ピカピカだろ」

「あ……うぅっ」


優秀な公務員としてのアイデンティティが、ただの指鳴らし一つで粉砕された。

イルマは唇を噛み締め、涙目でキッチンへと走り去っていく。


それから数時間が経過した、深夜。

月明かりが差し込む薄暗い廊下で、キュッ、キュッという布の擦れる音が微かに響いていた。


アルトが目を覚まし、寝室の襖をそっと開ける。

冷たい床の上で、イルマがふらふらと覚束ない手つきで雑巾を動かしていた。


「……イルマ? 何やってるんだ」

「あ、アルト様っ。申し訳ありません、足音で起こしてしまって……」


目の下には濃いクマができ、息は荒い。

アルトのチート魔法で完敗した彼女は、自分の存在意義を示すために、意地を張って深夜まで無給の労働を続けていたのだ。


「まだ終わって、いません。私には、国家の仕事以外に何も……だから、せめて家事くらいで、アルト様のお役に立たないと……捨てられちゃうっ」


カクン、と。

限界を迎えたイルマの体が、糸が切れたように前に倒れ込む。


「危ない」


アルトがとっさに身を乗り出し、冷たい床に顔を打つ寸前でその細い体を抱き止めた。

石鹸の香りと、無理をして熱を持った体温が、アルトの胸に直接伝わってくる。


そのままアルトはリビングのソファに腰を下ろし、自分の膝の上にイルマの頭をそっと乗せた。


「アルト、様……ダメです、こんな、私なんかが」

「働きすぎだ。休むこともタスクのうちだぞ」


アルトの少し荒れた大きな手が、イルマの頭をポンポンと優しく撫でる。

同時に、指先から漏れ出した規格外の回復魔力が、イルマの体内に蓄積された過労とプレッシャーを、春の雪解けのように溶かして消し飛ばしていく。


「んんっ……あ、アルト様の、手……すごく、あったかい」


とろけるような甘い声。

国家への絶対的な忠誠心が、アルトの膝枕の温もりによってドロドロに溶け落ちていく。

誰にも頼れず、一人で法と数字に縛られて生きてきた彼女が、初めて見つけた絶対的な安らぎの場所。


イルマは潤んだ瞳でアルトを見上げ、その首に両腕を回してすがりついた。


「……私、もう国には帰りません。一生ここで、アルト様のおパンツを洗いますっ」

「いや、自分のパンツくらい自分で洗うから」

「だめです。アルト様のすべてを私が監査して、私が全部綺麗にしますから……っ」


顔を真っ赤にしてアルトの胸に顔を埋める。

ただのポンコツで過激な専属メイドが、ここに爆誕した瞬間だった。


ドンッ。


静寂を破り、廊下の奥の襖が激しい音を立てて開け放たれた。


「……ちょっと、泥棒公務員。夜這いなんて聞いてないわよ」

「アルトのおパンツは私が洗うの! 監査官だろうと譲らないからね!」

「お姉ちゃん、深夜のつまみ食いは許さないわよ」


サクリアの極大魔法の火の粉が舞い、ユエルの聖剣が月光を反射し、ミサリアの超重力が空気を軋ませる。


「……やれやれ。また夜更かしのタスクが増えそうだな」


アルトの呆れたような吐息。

月明かりだけが、ピカピカに磨き上げられたリビングの床を、どこまでも冷たく、そして騒がしく照らし出していた。

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