第55話
雲ひとつない青空の下、ふかふかの芝生に広げたレジャーシートの上には、ミサリアが腕によりをかけて作った色鮮やかなお弁当が並んでいた。
「アルト、はい、あーん。お姉ちゃん特製の厚焼き卵よ」
「ちょっとミサリア! アルトの最初の一口は、妻である私がいちごを食べさせるって決まってるの!」
「私のおにぎりも食べてー!」
両脇と正面から差し出される食べ物の山。
足元では、サクリア特製の極小マントを羽織ったプチが「キュイ、キュイ!」とはしゃぎながら、サンドイッチのパン屑を美味しそうに啄んでいる。
完璧なピクニック。俺の求める、最高に温かくて平和なスローライフだ。
俺が大きく口を開け、ミサリアの厚焼き卵を頬張ろうとした、まさにその瞬間だった。
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に、森の暗がりから無数の凶刃が放たれた。
音を置き去りにするほどの速度で飛来したそれは、レジャーシートの中心――俺の首元と、美味しそうなお弁当の山を正確に狙っていた。
だが、それらの刃は俺に届くことはなかった。
カィィンッ!
俺たちを覆うようにミサリアが張っていた『ただの日傘代わりの生活結界(※実質、神話級の絶対防御)』に直撃し、飴細工のようにぐにゃりと曲がって地面にパラパラと落ちたのだ。
「……あ?」
俺が間の抜けた声を出す。
落ちた刃の一つが、プチのすぐ目の前の地面に突き刺さった。
「ピィィッ!?」
驚いたプチがひっくり返り、葉っぱの足をバタバタさせて泣き出してしまう。
さらに、弾かれた刃の破片がシートの上に落ち、ミサリアが朝から丹精込めて焼いた厚焼き卵の真ん中を見事に真っ二つに両断してしまった。
静まり返るレジャーシート。
そこへ、森の影から漆黒の装束に身を包んだ数十人の暗殺部隊が、音もなく姿を現した。
「チッ……防御結界の魔導具か。だが無駄だ」
部隊のリーダー格の男が、血走った目で俺を睨みつける。
「おいアルト、お前が抜けたせいで俺たちの部署は火の車だ。休日出勤手当すら出ないのに、お前を連れ戻すという面倒なタスクを振られた俺たちの身にもなれ! サビ残の憂さ晴らしに、お前の周りの女子供を『処理』して、定時で帰らせてもらうからな!」
ブラック企業特有の理不尽な怒りと、殺意。
かつての俺なら、そのプレッシャーに息を詰まらせていただろう。
だが、今の俺が何かをするよりも早く。
ピキッ……。
周囲の空間が、文字通り凍りつくような異音を立てた。
俺の周りにいたヒロインたちの目から、一切の感情の光が消え失せていたのだ。
「……私の可愛いプチを泣かせたわね。そして何より、私の愛する夫の『休日』を邪魔したわね、下等生物」
サクリアが、冷ややかな声と共にゆっくりと立ち上がる。
彼女の背後に、太陽の光すら飲み込むほどの底知れない漆黒の魔法陣が、空を覆い尽くす規模で展開された。
「アルトの笑顔を奪うタスクなんて、私が全部切り刻んであげる」
ユエルが腰の聖剣を抜く。
普段の天真爛漫な少女の面影はどこにもない。そこにあるのは、ただ敵を殲滅するためだけに存在する『冷酷な剣聖』としての絶対的な威圧感だ。
そして、ミサリアが真っ二つに割れた厚焼き卵を見つめながら、地獄の底から響くような極低温の声で囁いた。
「……お姉ちゃんが、アルトのために朝早く起きて作ったお弁当を、ゴミで汚したわね?」
ズズズンッ!!
ミサリアから放たれた純度百パーセントの超重力魔法が、物理的な重圧となって暗殺部隊に襲いかかった。
「な、なんだこのプレッシャーは……っ!? ぐああっ!」
Sランク探索者であり、国を落とすほどの実力を持っていたはずの暗殺者たちが、悲鳴を上げて次々と地面に這いつくばらされる。指一本動かすことすらできない。
「ば、化け物……っ! 俺たちは月四百時間のタスクをこなすエリートだぞ! なぜ、ただの村人の同居人ごときに……っ!」
リーダーの男が血を吐きながら叫ぶが、サクリアは虫けらを見るような目で見下ろした。
「月四百時間の労働? くだらないわ。私たちは、アルトへの『愛』のために二十四時間三百六十五日、命を燃やしているのよ。サビ残程度の覚悟で、私たちの家族の絆に勝てるとでも思ったのかしら」
サクリアが指先をパチンと鳴らす。
瞬間、暗殺者たちが持っていた致死毒の武器や防具が、一瞬にしてチリとなって消滅した。
続いてユエルが聖剣を無造作に一振りすると、彼らの周囲の森の木々だけが、彼らの肌を一切傷つけることなくミリ単位で綺麗に丸裸に刈り取られる。
圧倒的、次元が違いすぎる蹂躙。
戦いにすらなっていない。暗殺者たちの目に浮かんでいた殺意は、底知れない恐怖と絶望の涙へと完全に塗り替えられていた。
「ひぃぃぃっ! ご、ごめんなさい! もう帰ります、退職届を出しますから許してぇぇぇっ!」
泣き叫ぶ元エリート暗殺者たち。
ヒロインたちが「命で償いなさい」とトドメを刺そうとした、その時。
「こらこら、お弁当の前で物騒なことはやめなさい。プチが怖がってるだろ」
俺は泣いているプチを手のひらで優しく撫でながら、三人にポンと肩を叩いた。
「あ……ご、ごめんなさい、アルト」
「つい、カッとなって……」
俺の声を聞いた瞬間、三人の纏っていた絶望のオーラが嘘のように霧散し、いつもの可愛い女の子の顔に戻る。
俺は地面に張り付いて震えている暗殺者たちを見下ろし、持っていたお茶の入った水筒を軽く振った。
「休日出勤、お疲れ様。その契約書は俺には必要ないから、支部長に『労基署の指導が入りますよ』って伝えておいてくれ」
イルマが「すでに告発状の作成は完了しています」と眼鏡を光らせる。
暗殺者たちは何度も土下座を繰り返すと、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
「まったく、せっかくの卵焼きが台無しになっちゃったな」
俺が苦笑いしていると、ミサリアが慌てて新しいお弁当箱を取り出した。
「だ、大丈夫よアルト! 予備の卵焼きはあと五箱分あるから!」
「そんなに食べきれないよ」
俺たちは顔を見合わせて笑い合い、再び平和なピクニックの続きを始めた。
かつて俺を縛っていた巨大なブラック組織の脅威は、愛する家族たちの過保護な防壁の前に、文字通り手も足も出ずに粉砕されたのだった。




