第48話
冷たい雨の記憶が、コタツのヒーターが発する「ジーッ」という温かい音に溶けて消えていく。
俺はゆっくりと目を開けた。
視界に広がったのは、暗い裏路地でも、血まみれのギルドでもない。
ふかふかの太ももの感触と、上から俺を優しく見つめるミサリアの、とろけるような笑顔だった。
「おはよう、アルト。よく眠れていたわね」
ミサリアの白く細い指先が、俺の寝癖のついた髪をゆっくりと梳く。
膝枕の心地よさと、部屋中に漂う甘いシチューの匂いに、俺の全身から完全に力が抜けていった。
「姉さん……俺、いつの間に寝てたんだ」
「ふふっ、無理もないわ。昨日、お城を圧縮するのにたくさん魔力を使ったんだもの。さあ、口を開けて。特製の黄金シチューよ。あの時よりも、ずっと美味しく作れたから」
ミサリアが木製のスプーンでシチューをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから俺の口元に運んでくる。
口に含んだ瞬間、極上の旨みと、細胞の隅々まで染み渡るような過剰なバフ(回復魔法)の温もりが弾けた。
あの日の泥水の中で飲んだスープとは違う。
今はもう、誰も傷つくことのない、完全に守られた食卓だ。
「……うん。すごく美味い」
俺が微笑むと、ミサリアは頬を赤く染め、俺の頭を胸元にギュッと抱き寄せた。
エプロン越しの豊かな柔らかさと、彼女の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
「ええ、もっと食べて。アルトの心も体も、ぜぇんぶ私のもので満たしてあげるから……っ」
甘く、少しだけ重い独占欲。
だが、その幸せな二人きりの時間は、すぐにコタツの反対側からの抗議によって破られた。
「ちょっとミサリア! あなた、さっきからアルトの頭を独占しすぎよ! そろそろ正妻であるこの私が、胸の鼓動でアルトを寝かしつける番だわ!」
ネグリジェ姿のサクリアが、コタツ布団をバサッとめくって俺の右腕に強引に絡みついてきた。
滑らかな肌の感触と、魔王特有の甘い香りが至近距離で俺を包み込む。サクリアは俺の肩に顎を乗せ、赤い瞳を潤ませて上目遣いで見つめてきた。
「ねえアルトぉ……私、あなたが起きてくるのずっと待ってたのよ? 私のことも、ちゃんと撫でて温めてくれないと、寂しくて凍え死んじゃうわ……」
「ずるい! サクリアばっかり! 私だってアルトにくっつくんだから!」
今度はコタツの潜り込んでいたユエルが、俺の左側から飛び出してきた。
彼女は俺の左腕を両手で抱え込み、子犬のように自分の頬をスリスリと擦り付けてくる。
「えへへ、アルトの匂い……落ち着く。私、ずっとこのままアルトの腕の中で生きていくね!」
右腕には元魔王、左腕には剣聖、そして頭は最強の義姉の膝の上。
二十畳のワンルームに圧縮された空間のせいで、逃げ場はどこにもない。いや、そもそも逃げる気など微塵も起きないほどの、致死量の愛情の奔流だった。
「お、お待ちください皆様! そのような過度な密着は、室内の熱源配分において極めて不平等です! 労働基準の観点からも、適切な休息には均等な温もりが必要不可欠であり……っ」
そこへ、銀縁眼鏡を曇らせたイルマが、分厚い六法全書を片手に参戦してきた。
彼女は早口で法律用語を並べ立てながらも、その顔は限界まで真っ赤に茹で上がっている。
「……よって、特級監査官である私が、アルト様の背中側から体温の……その、密着監査を、実行いたしますっ!」
ドサッ、と。
イルマが背中側から覆い被さるように抱きついてきて、ついに俺は四人の規格外ヒロインたちの愛の重みで完全に身動きが取れなくなった。
「ふふっ、みんなアルトのことが大好きなのね。でも、一番は私よ?」
「何言ってるの、私に決まってるわ!」
「私だよーっ!」
「こ、公務として私が一番です!」
俺の上で繰り広げられる、世界を滅ぼしかねない女たちの幸せな口論。
その騒がしさを聞きながら、俺は視線だけを動かし、部屋の隅にある『ガムテープで封印された黒いドア』を見やった。
あのドアの向こうには、かつての冷たい雨と、血を吐くような労働の世界が広がっている。
けれど、もう俺がそこに引きずり込まれることは絶対にない。
「……あーあ。これはこれで、別の意味で息苦しいな」
俺はため息をつくふりをして、右手のサクリアの頭を撫で、左手のユエルの髪をくしゃりと掻き回した。
そして、背中のイルマに軽く寄りかかりながら、ミサリアの膝にさらに深く身を預ける。
「でも、悪くないタスクだ」
俺の言葉に、四人のヒロインたちの顔がパッと輝いた。
かつて生きるために感情を殺した最強の社畜は今、この狭くて温かいワンルームのコタツの中で、世界で一番甘くて幸せな『過労』に溺れていた。




