第43話
ちゅんちゅんと小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな朝。
俺は巨大なコタツの中で目を覚まし、身動きが取れないことに気づいた。
右腕にはサクリアが、左腕にはユエルが抱き着いてスースーと寝息を立てている。足元では金髪の創造女神レムが俺のふくらはぎを枕にしてよだれを垂らし、コタツの端では冥界の王女ネリアがゾンビのぬいぐるみと一緒に丸まっていた。
「おはよう、アルト。朝ご飯、もうすぐできるわよ」
徒歩三秒の距離にあるキッチンから、エプロン姿のミサリアが目玉焼きを焼くいい匂いを漂わせる。その横では、寝癖をつけたままの騎士団長タチアナが、お箸と茶碗を握りしめて忠犬のように待機していた。
二十畳のワンルームに圧縮された城は、どこを見渡しても家族の顔が見える。完璧なスローライフの朝だ。
俺はヒロインたちを起こさないよう、器用にコタツから抜け出した。
そして、昨日の夜から気になっていたタスクを片付けるため、リビングの壁際にポツンと残された漆黒のドアへと向かう。
引き出しから取り出したのは、ホームセンターで買った百数十円の布製ガムテープだ。
「変なゴミ捨て場と繋がったままだと、すきま風が入るからな。しっかり目張りしておかないと」
俺がガムテープをビーッと引き出した、まさにその時だった。
ガタガタガタッ!
昨日掛けた百均の南京錠が、外側から激しく揺らされた。
そしてドアの下のわずかな隙間から、一枚の赤紙がスッと差し込まれてきたのだ。
そこには血文字のような赤いインクで『特命:休日出勤命令書・対象者アルト』と記されていた。
「あ……」
その赤い文字を見た瞬間、俺の視界から朝の光が急速に色褪せていった。
耳の奥で、かつてのブラックギルドの出勤アラートがガンガンと鳴り響く。九十六時間連続勤務の末に血を吐いた記憶。終わらない書類。休むことは罪だという刷り込み。
俺の瞳からスッと光が消えた。
無表情になった俺の右手は、意志とは無関係にポケットへ伸び、使い込まれた自分の『承認ハンコ』を握りしめていた。出勤命令に判を押さなければ、またあの暗い部屋で説教が始まる。早く、早く判を押して働きに行かなくては。
俺が震える手でハンコを紙に押し当てようとした、その直後。
パァンッ!
真横から伸びてきたフライパンが、俺の手からハンコを見事に弾き飛ばした。
「アルト。今日は有給休暇を取るって、昨日お姉ちゃんと約束したでしょ」
いつの間にか横に立っていたミサリアが、絶対に逆らってはいけない極低温の笑顔で俺を見つめていた。
「ええ、そうよ。私の夫に休日出勤を強要するなんて、どこの三流企業かしら」
コタツから抜け出したサクリアが、赤い瞳にドス黒い殺意を浮かべて指先を鳴らす。
ボワッ、と。ドアの隙間から差し込まれた出勤命令書が、一瞬で漆黒の炎に包まれ、灰も残さず消滅した。
「アルトは行かせない! 私がいっぱい働くから、アルトはコタツで寝てて!」
パジャマ姿のユエルが聖剣を抜き放ち、ドアの隙間に向かって神話級の斬撃をぶち込む。ドアの向こう側から「ぎゃあっ!?」という元上司ガルドの悲鳴と、書類の山が吹き飛ぶ音が聞こえた。
さらに、眼鏡を光らせたイルマが魔導バインダーを開き、ドアの表面にペタリと黄色いお札を貼り付けた。
「労働基準法違反、ならびに不当な業務命令です。当該事業所は現在、王立魔導財産監査院により『差し押さえ』といたします」
ヒロインたちの連携プレイ。
俺をブラックな過去に引きずり込もうとするトラウマを、彼女たちは言葉ではなく、圧倒的な暴力と権力と過保護さで完全に粉砕してくれた。
俺の目に、再び温かいリビングの光が戻ってくる。
一人で痛みに耐える必要は、もうどこにもないのだ。
俺はハンコを拾い上げ、代わりに手に持っていたガムテープを引きちぎった。
「みんな、ありがとう。……そうだな、こんな迷惑なダイレクトメールを送ってくる業者は、着信拒否に限る」
俺はドアの隙間を塞ぐように、ペタペタと無造作にガムテープを貼っていった。
ただの布テープのはずが、俺の『二度と過去には戻らない』という強烈な意志と規格外の魔力を吸い込み、眩いばかりの神聖な光を放ち始める。
『空間切断』と『絶対封絶』。
神話の神々ですら破ることのできない絶対的な次元の断絶が、たった数百円のガムテープによってドア枠に施されたのだ。
「ア、アルトぉぉぉっ! 頼む、帰ってきてくれええぇぇっ……!」
ガムテープの隙間から微かに聞こえていたガルド支部長の悲痛な叫び声は、最後の一切れをピタッと貼った瞬間に完全に途絶えた。
これで、ブラックギルドとの縁は完全に切れた。
「ふぅ、これで静かになったな」
俺が満足げに頷くと、サクリアとユエルが両側から俺の腰にギュッと抱きついてきた。
「アルトの居場所は、ここだけだもん」
「ええ。もう二度と、あんな暗い顔はさせないわ」
「むにゃ……なんじゃ、もう朝か。目玉焼きには醤油を所望するぞ」
「私も同感だ! 腹が減っては戦はできぬからな!」
足元で目を覚ましたレムが背伸びをし、タチアナが待ちきれない様子で茶碗を鳴らす。
ネリアもゾンビのぬいぐるみを抱えたまま、コタツからひょっこりと顔を出した。
「さあ、みんな手を洗ってきて。朝ご飯にするわよ」
ミサリアの優しい声が、二十畳のワンルームに響き渡る。
最強で最高に騒がしい家族たちに囲まれた、正真正銘の平穏なスローライフの朝食が、今度こそ本当に始まるのだった。




