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第44話

「んんーっ、やっぱりミサリアのご飯は世界一だよ!」


ユエルが目玉焼きを乗せたトーストを頬張り、幸せそうに足をバタバタさせる。

サクリアも優雅に紅茶を傾けながら、満更でもない様子で頷いた。


「ええ。アルトの胃袋を掴んでいることだけは、素直に賞賛してあげるわ」


「みんな、いっぱい食べてね。おかわりはまだまだあるから」


私は微笑みながら、空になったタチアナのお茶碗に山盛りの白米をよそった。

視線の先には、両手で温かいお茶の入った湯呑みを包み込み、ホッと息を吐くアルトの姿がある。


その無防備で穏やかな寝癖のついた頭を見ていると、私の胸の奥がギュッと締め付けられる。

温かい部屋、温かい食事、そして誰も傷つかない安全な朝。


これこそが、私が何に代えても守り抜くと決めたすべてだ。

カウンターに置かれた使い込まれた鉄のフライパンの柄を撫でながら、私はふと、ずっと昔の冷たい雨の匂いを思い出していた。


ーーー


私がまだ、アルトの『お姉ちゃん』になる前の話。

大陸の国境沿いにある名もなき寂れた村で、私は泥水に塗れて倒れていた。


冷たい雨が、容赦なく私の体温を奪っていく。

視界の先には、崩れ落ちた家屋と、動かなくなった家族の姿があった。

飢饉と流行り病、そして国境を荒らす野盗の襲撃。何の力も持たない辺境の村人にとって、それは防ぎようのない天災と同じだった。


『……お腹が、すいた』


泥だらけの手には、硬く黒ずんだカビの生えたパンの欠片が握られている。

口に入れれば確実に病になる。けれど、それを食べなければ今日を生き延びることはできない。


私は震える手でそのパンを口に運ぼうとした。

その時、雨音を切り裂いて、巨大な影が村の広場に降り立った。


四つの目を持つ、家屋よりも巨大な狼の魔獣。

飢えに狂い、村の残骸を漁りに来た『飢餓の魔犬』だった。


魔犬の赤い複数の眼球が、ピタリと私を捕らえる。

鋭い牙から垂れた涎が、雨に混じって私の頬に落ちた。

逃げる体力も、叫ぶ気力もない。私はただ、泥の中で目を閉じて痛みが過ぎ去るのを待つことしかできなかった。


「……あー、面倒くさい。なんで非番の日に、国境警備隊の尻拭い案件を振られるんだ」


死の直前、そんな無気力で平坦な声が聞こえた。


目を開けると、真っ黒な外套を深く被った小柄な少年が、魔犬と私の間に立っていた。

少年……アルトは、雨に濡れるのも構わず、手にした分厚い羊皮紙の束(ギルドの未処理の書類)を丸めてポンポンと肩を叩いている。


魔犬が獲物を奪われまいと、鼓膜を破るような咆哮を上げてアルトに飛びかかった。


「経費の無駄だから、一撃で終わらせるぞ」


アルトは丸めた書類を、ハエを叩き落とすような無造作な動作で横に振った。


ドゴォォォォンッ!


それだけで、空間そのものがひしゃげるような破裂音が轟き、巨大な魔犬の体が雨粒よりも細かく粉砕されて夜の森の彼方へと消し飛んだ。


私はその光景を、ただ呆然と見上げていた。

アルトは書類の束を外套にしまうと、泥だらけで倒れている私を見下ろした。

その瞳には、子供らしい光や感情は一切ない。ただ、過労と睡眠不足で真っ黒に濁った、死人のような目をしていた。


アルトは無言のまま私の隣にしゃがみ込むと、雨除けの小さな結界を張り、携帯用の粗末な鉄鍋を取り出した。

そして、固い干し肉と、そこら辺に生えていた名も知らぬ野草をちぎって鍋に放り込み、無骨な指先から魔法の火を出して煮込み始めたのだ。


「……食わないと、明日の労働ができないからな」


ボソリと呟き、アルトは煮上がったばかりのスープを木の器に注いで、私の顔の前に突き出した。


匂いを感じた瞬間、私の胃袋が痙攣するほど激しく鳴った。

恐る恐る器を受け取り、スープを一口飲む。


「あ……」


それは、ただの塩と干し肉の味のはずだった。

しかし、アルトの指先から無自覚に漏れ出していた『疲労回復』と『栄養増幅』の魔力が溶け込んだその一杯は、私の冷え切った内臓を急速に温め、失いかけていた命の火をボワッと燃え上がらせた。


涙が溢れて止まらなかった。

家族を救えなかった無力感。冷たい泥の感触。死への恐怖。

そのすべてが、この不器用で乱暴な一杯の温かいスープに溶かされていく。


私が泣きながらスープを飲み干すのを見て、アルトは自分の分の干し肉も無言で私の器に入れた。

その時、アルトの手が微かに震え、あかぎれと無数の刃物の傷でボロボロになっていることに気がついたのだ。


この少年は、圧倒的な力を持っているのに、自分のためにその力を使っていない。

誰かに使役され、自分の身を削って、ただボロボロになるまで戦わされているのだと、直感で理解した。


『私が……』


空になった器を握りしめ、私はアルトの小さな、けれど傷だらけの背中を真っ直ぐに見つめた。


この人が私に命の温もりをくれたなら。

私が、この人のすり減った心を温める。

私が、この人のご飯を作る。

私が、この人を理不尽なすべてから守り抜く。


それが、力を持たなかった少女が、アルトの絶対的な『姉』になると誓った、狂気にも似た愛情の始まりの夜だった。

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