第36話
四月の穏やかな風が吹き抜ける夜。
ネリアのからくり玩具を囲んで笑い合う彼女たちを見ていたら、ふと、ずっと昔の春の日を思い出した。
俺がまだ七歳の子供だった頃。
ブラックギルドに拾われて地獄の労働を強いられる前の、本当に短かった平穏な村人Aとしての幼少期だ。
村の裏山には豊かな森が広がっていて、春になると甘い野イチゴや山菜がそこら中に生えていた。
その日も、俺は一人で竹の籠を背負って、おやつの足しにするための野イチゴを摘みに深い森へと入っていた。
木漏れ日が差し込む獣道を抜けた先。
小さな泉のほとりで、俺は一人の不思議な女の子に出会った。
漆黒の長い髪に、真っ赤な瞳。
頭の左右には、まだ生えかけの小さな角がちょこんと生えている。
年の頃は俺と同じくらいだが、着ている黒いドレスはところどころ破れて泥だらけだった。
「……何を見ているの、下等生物。魔族の姫であるこの私に、気安く近づかないで」
女の子は俺を見るなり、小さな肩を震わせながら必死に威嚇してきた。
だが、その赤い瞳には今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいて、足元はおぼつかない。
迷子になってお腹を空かせているのは、子供の俺から見ても明らかだった。
俺は全く怯えることなく、籠の中から真っ赤に熟した一番大きな野イチゴを取り出し、泉の冷たい水でサッと洗った。
「俺はアルト。君、名前は」
俺がイチゴを差し出すと、女の子は戸惑ったように赤い瞳を瞬かせた。
「サ、サクリアよ……。って、こんな木の実ひとつで私を懐柔できるとでも」
きゅるるるる。
サクリアの強がりを遮るように、その小さなお腹から盛大な虫の音が鳴り響いた。
サクリアは顔を真っ赤にしてうつむき、プルプルと震え出す。
俺は苦笑して、彼女の小さな手にイチゴを握らせた。
「いいから食べてみなよ。すごく甘くて美味しいから」
サクリアは俺の顔とイチゴを交互に見比べ、やがておずおずと小さな口を開いて、イチゴをかじった。
途端に、その赤い瞳がパァッと見開かれる。
「……あまい」
「だろ。この森の野イチゴは特別なんだ。ほら、こっちにもたくさん生えてるぞ」
警戒心を解いたサクリアは、俺と一緒に泉のほとりで夢中になってイチゴを頬張った。
口の周りを真っ赤にして笑う姿は、魔族の姫なんて大層なものではなく、ただの年相応の可愛い女の子だった。
「アルト……この赤い実、すごく温かくて美味しいわ」
「それは日向に生えてたからだよ。お腹いっぱいになったら、シロツメクサで花の冠を作ってあげる。その小さな角、可愛くて俺は好きだけど、他の人に見つかると危ないかもしれないからな」
俺が慣れない手つきで編んだ不格好な花の冠を頭に乗せてやると、サクリアは自分の角が綺麗に隠れたのを確認して、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「ふふっ。アルトは不思議な人間ね。私を怖がらないし、こんなに優しくしてくれる」
春の木漏れ日の中、花の冠を被った幼いサクリアは、少しだけ背伸びをするように俺の頬にチュッと小さなキスをした。
「決めたわ。私、大人になったらアルトのお嫁さんになってあげる」
それが、俺とサクリアの始まりの記憶。
終わりのない孤独な玉座に縛られるはずだった彼女が、俺という温かい居場所を見つけた、小さな春の日の約束だった。




