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第28話

鼻先をくすぐる綿毛の感触。

全身の細胞がくしゃみという名の世界崩壊のスイッチを押そうとしている。


『ふぁ、ふぁっ……誰か、俺の鼻をつまんでくれ』


声に出せば衝撃波で大陸が割れる。俺は必死に目配せでSOSを送った。

その極限の緊張感が、俺の脳裏に真っ黒な過去の記憶をフラッシュバックさせる。


かつてSランク探索者として、陽の当たらない奈落の底で過ごした日々。

『絶対に音を立てるな』というギルドの理不尽な命令の下、神話級の魔獣の巣で九十六時間連続の隠密任務を強いられた時のことだ。


残業代すら出ない暗闇の中、俺は己の魔力が漏れないよう、自らの魔力回路に物理的に太い針を刺して封印するという狂気の手段で孤独に耐え抜いた。

終わらない業務と死の恐怖。俺はずっと一人で、痛みと過労を抱え込んで生きてきたのだ。


『今回も自力で魔力回路を焼き切るしかない』


そう覚悟を決めた瞬間。

冷たい奈落の記憶を塗り潰すように、ふわりと甘い香りが俺を包み込んだ。


「一人で抱え込まないで。あなたの抱える理不尽は、妻である私が半分背負うわ」


正面からサクリアが俺の首に腕を回し、顔を近づけてきた。

そのまま、俺の唇をサクリアの柔らかい唇で真っ直ぐに塞ぐ。


「んっ……」


驚く暇もなかった。

重なった唇を通して、俺の体内で暴走していた致死量の超過魔力が、恐ろしい勢いでサクリアの中へと吸い出されていく。

過去の暗闇で凍えていた俺の心に、圧倒的な熱量と愛情が流れ込んできた。


もう、俺は一人でブラック労働の痛みに耐えなくていいんだ。


数秒の深い接触の後、サクリアがゆっくりと唇を離した。

俺の魔力は完全に正常値に戻り、世界崩壊の危機と、イルマの魔導計算機が弾き出していた秒速の追徴課税がピタリと停止する。


「……ずいぶんと、甘い魔力ね」


サクリアが艶やかに微笑む。

だが、その直後だった。

俺の規格外の魔力を直接飲み込んだサクリアの白い肌が、異常なほどの熱を帯びて真っ赤に染まり始めたのだ。


「あ、れ……? アルトの魔力が、私の中で……熱ゅい……」


最強の元魔王の口から、聞いたこともないような甘ったるい声が漏れる。

過剰バフの矛先がサクリアに移り、サクリアの中の魔王としての支配欲と俺への愛情が、完全に暴走を始めてしまったらしい。


「アルトぉ……私、もう我慢できない……ここで、全部……」


赤い瞳が完全にトロンと染まり、サクリアが俺を押し倒そうと理不尽な力で迫り来る。

その背後では、神聖なファーストキスを出し抜かれて静かにブチ切れたユエルとミサリアが、一切の感情を消した顔で致死量の武器を構えていたーーー

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