第22話
抗う間もなく、俺の頭はふわりとした極上の柔らかさに包み込まれた。
ミサリアの膝枕だ。
石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐり、全身の力が抜けていく。
「ふふ、アルト。最近ずっと働き詰めで肩も凝っているでしょう? 今日は特別に、庭の世界樹の枝から削り出した特製耳かきよ」
『世界樹の枝って、そんなポンポン削っていいものなのかな……』
俺の密かな疑問をよそに、淡く発光する木の枝がそっと耳の中へと滑り込んできた。
「んっ……」
瞬間、全身の毛穴という毛穴から、爆発的なエネルギーが吹き出し始めた。
ただの耳かきのはずなのに、疲労はおろか前世の業まで浄化されそうな凄まじい回復魔法の奔流が、脳髄を直接揺らしてくる。
『うおっ、これ気持ちいいとかそういう次元じゃない! 魔力が回復しすぎて意識が飛ぶ!』
「痛くない? いい子ね、アルト。このまま私と一緒に、永遠の安らぎの世界へ行きましょう……」
ミサリアの甘い声が、どこか危険なヤンデレの響きを帯びて鼓膜を撫でる。
このまま身を任せれば極楽浄土へ直行(物理)してしまいそうだ。俺はスローライフを守るため、最後の理性を振り絞り、ポケットから愛用の市販品を取り出した。
「あ、耳かきなら自分でできるから大丈夫。ほら、この百均の綿棒が一番落ち着くんだ」
空気を読まずに特製耳かきを避け、自前の綿棒を構える。
『これでなんとかごまかせるはずだ』と思った俺が浅はかだった。
「……アルト? 私の膝枕より、その安っぽい綿棒のほうがいいって言うの?」
リビングの温度が急激に下がり、ミサリアの背後に絶対零度の吹雪が幻視できる。
やばい、致死量の地雷を踏んだ。
俺が冷や汗を流し、必死に弁解の言葉を探そうと口を開きかけた――まさにその時だった。
ズドォォォォォンッ!!
空が裂けるような轟音と共に、ギルドハウスの天井が綺麗に吹き飛び、巨大な次元の亀裂が走った。
瓦礫の雨の中から転がり込んできたのは、ボロボロになった税務局の調査官と、ホコリひとつ被っていないサクリア、ユエル、レムの三人組だ。
「ふぅ、いい運動になったわ。アルト、あなたのための定時退社、完了よ」
サクリアが優雅に着地し、自慢げな笑みを浮かべて髪をかき上げる。
「アルトおおお! 私、すっごく頑張ったよ! あなたの借金を返すために、剣を一振りしただけで魔王領のダンジョンごと大陸の形が変わっちゃった!」
ユエルが満面の笑みで俺に飛びつこうとするが、ミサリアの放つ異常な冷気に気づき、ピタリと空中で硬直した。
「お前たち、やりすぎじゃ! 勢い余って隣接する次元ポケットまで消滅させておったではないか。我の事後処理が増えるじゃろ!」
レムが呆れたようにため息をつく中、白目を剥いていた調査官が、震える手で分厚いバインダーを差し出してきた。
「あ、アルト様……。ダンジョン踏破の報酬は確かに受け取りましたが……隣接次元の崩壊に伴う『時空環境保護法違反』の罰金と、大陸地図の再編費用として、損害賠償請求が新たに発生しまして……」
提示された新しい請求書。そこにあるゼロの数は、先ほどの追徴課税の比ではなかった。
桁が多すぎて、もはや古代文字にしか見えない。
俺は静かに百均の綿棒をポケットにしまい、もう一度、極上の柔らかさを持つミサリアの膝に頭を預けた。
「……姉さん。やっぱりその特製耳かきで、俺の意識を遠いところまで飛ばしてくれないかな」
「ふふ、仕方ないわね。大丈夫よアルト、あなたについた天文学的な借金ごと、私が一生養ってあげるから」
俺の額を優しく撫でるミサリアの底知れぬ微笑みと、請求書を掲げたまま泡を吹いて倒れる調査官。
俺の夢見る平穏なスローライフは、どうやら消滅した隣の次元よりも遠い場所にあるらしい。
そう悟り、現実逃避のために静かに目を閉じた直後。
ダンジョンから帰還したばかりのサクリアとユエルが、自分たちの戦果を無視され、あろうことか特等席である『膝枕』をミサリアに奪われている事実に気づいた。
チャキッ……。
無言で凶悪な武器のロックを外す冷たい金属音が、両耳のすぐそばで響き渡ったのだった――。




