第九話 微笑みの勇気
終わったと誰もが思った。
負けたと誰もが覚悟した。
魔王が拳を上げる。あとにはなにも残っていない。
神器の祝福のない状態で、あの憤怒の拳を受ける。その致命的な事実を前に、勇者の仲間たちは膝を屈するしかなかった。
「そんな……」
呆然とリコリスは立ちつくし、
「……え?」
レナスロッテは理解できないというような表情で首を傾げ、
「くそっ!」
ユーゴは剣を取り落としそうになり、
「セルンさん!」
マリエールだけが咄嗟に、セルンのところへ駆け寄っていった。
治癒の神器を持つ彼女ならば、あらゆる怪我を治すことができる。だが他の三人は希望なんて抱かなかった。いかなマリエールの神器であっても、死んだ人間を蘇らせることはできない。
それはマリエールもわかっている。それでも走った。
セルンと約束をしたのだ。誰一人として欠けることなく戻ると。それにはマリエールの力が必要だと言われた。
だから、マリエールは戦いの前に誓ったのだ。誰も死なせない。そのために自分は最後まで諦めてはいけない、と。
癒し手は諦めてはダメなのだ。最後の最後まで、奇跡を信じて祈らなければならない。だからマリエールはセルンの許へ急いだ。
跡形もなく消え去ったと思われた勇者は、けれどそんなマリエールのことを待っていてくれた。
衝撃に崩落した地面に半ば埋まる形で、セルンは生き長らえていた。骨は粉々になり、身体のほとんどは潰れ、内臓のほとんども破裂してしまっていたけれど、それでも生きていた。
生きているのならば救える。
「お願い! 『天使の涙』!」
マリエールは胸元の神器を握りしめると、治癒の光を灯す。
その淡く優しい輝きを見て、他の三人もセルンの生存に気が付いた。
「嘘、セルンさん。生きてる……?」
「なんという。あれを受けて生きているだなんて」
「……当然です。だって、セルン様なのですから」
ユーゴは剣の柄を握りしめ、レナスロッテも瞳に理性の輝きを取り戻す。
セルンは生きている。それならば、まだ自分たちは戦える。二人はすぐに冷静に状況を確認し、それぞれがやるべきことを果たすべく動く。
「ユーゴさん。セルン様の治療が終わるまで、魔王の足止めをお願いします」
「心得た」
レナスロッテの困難極まる指示に対し、ユーゴは二つ返事で頷いた。
魔王は先程の攻撃でセルンを仕留めたと思ったのか、今はその身体を大きくすることに集中している。だがマリエールの放つ淡い輝きは、魔王にもすぐ気付かれる。そうなったとき、間違いなくセルンに止めを刺しにくるだろう。
ユーゴもまた、ラクサスとの戦いで多くの怪我を負っていたが、それでもあの魔王と戦えるのは彼しかいなかった。レナスロッテがそう判断したのならば、ユーゴはそれに従うのみだ。
「わたくしは奪われたトアレさんを救う手立てを構築します」
魔王の能力によって奪われたトアレを取り戻す方法はわからない。それでも、彼女を取り戻さなければ、たとえセルンが目を覚ましても勝機はない。
「頼む」
ユーゴはレナスロッテに託し、少しでも魔王の意識からセルンを遠ざけるべく走り出した。
レナスロッテは彼を見送ると、頭を全力で動かして、魔王からトアレを取り戻す方法を模索する。
魔王が死者の魂を取り込み、その神器の能力すら使えるというのなら、セルンとトアレを分かったのは、間違いなくゼスティの神器だ。ならば、彼女の結界を破ればトアレを救い出せるはず。魔王によってトアレ本人が吸収されていたら万事休すだが、その可能性に賭けるしかない。
どこかにトアレを閉じこめた結界があるはずだ。
それをなんとしてでも見つけ出し、破る。
「リコリスさん、あなたもトアレさんを探す手伝いを……」
レナスロッテはリコリスに指示を飛ばそうとしたところで、彼女の様子がおかしいことに気が付いた。
彼女は肩を震わせ、呆然と立ちつくしたままだった。
「リコリスさん? なにをしているのですか? セルン様は生きているのです。まだ戦いは続いているのですよ?」
リコリスは首を横に振る。
「ううん、無理だよ。たとえセルンさんが復活して、トアレちゃんを取り戻せても、魔王には、アレには勝てない」
その言葉はリコリスにふさわしくない言葉だった。いつも前向きな彼女が、彼女だけが、この状況下で敗北を受け入れてしまっている。
「しっかりしてください! わたくしたちはセルン様の仲間です! 勇者の勝利を信じなくてどうするのですか!?」
「わかってる。でも、あれは、無理だよ。だって、神様だもん。神様に勝てるはずがないよ」
「神様? いえ、あれは魔王で」
「違うよ。魔王だけど、神様なの」
「……あなたには、そう見えているのですね」
いや、恐らくはリコリスの言葉が正しいのだろう。
レナスロッテも、魔王がさらなる巨大化を果たしたとき、彼がさらに強くなったのを感じた。だがそれだけだ。具体的にどういう変化が起きたかまではわからなかった。それはユーゴも同じだろう。マリエールは言わずもがなだ。
理解できたのは戦っていたセルンとトアレ、それ以外ではリコリスだけ。つまり、リコリスが一番セルンに近しい感覚を有しているということでもある。
「……リコリスさん。お願いがあります」
レナスロッテは直感にかけ、リコリスに言った。
「魔王と戦って時間を稼いできてください。あなたの言うことが正しければ、恐らくユーゴさん一人では持ちません」
「む、無理だよ。わたしが、わたしなんかが神様と戦うなんて!」
「けれど、あなたが戦わなければセルンさんは死にます」
殊更に現実を突きつけて、レナスロッテはリコリスを煽った。
「リコリス・ハーヴィン。セルンさんを守りなさい。それがあなたの役目です」
「でも……私は……」
「……わたくしはトアレさんを探します。あとは任せました」
「まっ」
レナスロッテはリコリスに背を向けると走り去る。
「……本当に、任せましたからね。リコリスさん」
走りながら、レナスロッテはつぶやく。
これでリコリスが動くかどうかはわからない。これは計算でなければ予想でもなかった。
あのリコリスがこの土壇場で怖じ気づいた理由はわかる。なんてことはない、彼女は今初めて死ぬのが怖いと思ったのだろう。愛を知り、敵の強さを知り、矮小な自分を自覚して絶望してしまったのだろう。
それを指して弱くなったというのは早計だ。彼女の心は間違いなく成長している。成長しているからこそ、普通の人と同じ恐怖を手に入れただけだ。
本当の強さが試されるのはここからだ。
そしてレナスロッテは、リコリスの強さを信じた。
生まれて初めて、仲間を信じて託したのだった。
走り去っていくレナスロッテをなにも言えないまま見送ったあとも、リコリスはその場から動けないでいた。
レナスロッテの指示は的確だ。だから彼女の言うとおりにしなければならないとわかっているのに、足が魔王の許へ向かうことを拒絶する。痛みなんて感じていなかったはずの切られた左腕が急に痛み出し、リコリスは思わず涙ぐんでしまった。
情けない。なんて情けないのだろう。
他のみんながそれぞれ自分の成すべきことをやっているのに、自分だけがなにもできずに恐怖に震えている。
これでは仲間失格だ。送り出してくれたシャルティエに申し訳が立たない。
そう思っているのに、踏み出せない自分の弱さに死にたくなる。
リコリスは強がるように涙を拭うと、魔王に背を向け、セルンとマリエールに歩み寄った。
「セルンさん。マリーちゃん」
二人に近付き、なにかを言って欲しくて声をかける。
マリエールは、しかしリコリスになにも言ってくれなかった。かつてない真剣な表情で、彼女はセルンの治療を続けている。その横顔はやはり格好よかった。リコリスの誇らしい親友の姿だった。
彼女ならば、きっとセルンを助けられる。自分が戦わなくても、セルンは間に合う。
だがそれは幻想だと、目の前の現実が突きつけてくる。必死になってマリエールは治療をし続けているが、その力はセルンには届いていなかった。セルンの傷は塞がることなく、身体の損傷は治るどころか悪化していく一方だった。
「なんで?」
疑問を口にしたあとに、すぐに気付く。
当然だった。セルンの傷は普通の傷ではない。神より与えられた呪いなのだ。
いかな神器の治癒であろうとも、憤怒の化身による絶死の宣告は覆せない。治療はできない。セルンはこのまま死ぬ。
死ぬ。セルンが、恋した人が、最高の勇者が、愛を教えてくれた人が、大好きな人が、死ぬ。
「……嫌だ」
リコリスはふらふらとセルンに近付いていくと、その胸元にすがりついて涙を流した。
「嫌だ。嫌だよ、セルンさん。死なないで。お願いだから死なないで!」
訴えてもセルンからの返事はない。まぶたは開かず、心臓も動いていない。もう死んでいるのではないかとすら、そう思った。
そう思うと、涙があふれて止まらなかった。
えぐえぐと、リコリスは子供のように泣き叫ぶ。
「セルンさん。嫌だ! 死んじゃやだぁ……!」
「大丈夫だよ、リコちゃん」
親友の見せた初めての涙を見て、マリエールはそう言い切った。
「大丈夫。セルンさんは死なせない。わたしが絶対に死なせないから」
力強く微笑んで頷くマリエール。
彼女のその自信が、リコリスにはわからなかった。
どうしてそんな風に言えるの?
いつも自信がないのに、どうして彼女以外誰も信じていないこの状況で、そんな風に言い切れるの?
声にするとしゃくりになってしまうため、瞳だけでそう尋ねる。
それにマリエールは、簡単だと言わんばかりの顔で言った。
「だって、リコちゃんが泣いてるから。わたしはね、リコちゃんが泣かなくてもいいように、リコちゃんの涙を止めるために、強くなるって誓ったんですよ」
そう、マリエールはそのために強くなると誓った。
ならば今こそ、その約束を果たすとき。
親友が泣いている。愛する人が死んでしまうと泣いている。
ならばその涙を止めて見せよう。彼女と自分の愛する人を救ってみせよう。
ああ、そうだ。自分はきっと、今日この瞬間のために、
「この力を願ったんだから……!」
マリエール・フェルトは、勇者候補に選ばれたのだ!
「神器覚醒――」
マリエールはすべての悲しみを終わらせるため、ここに次元を超えた。
「すべてに許しを――『天使と貴方に微笑みを』」
放たれる光輝。それはすべてを優しく抱きしめるように、あまねくすべてを癒していく。
リコリスの左手に光が集うと、なくなった左腕が再生する。
さらにこれまで癒えることのなかったセルンの傷が、ゆっくりとだがたしかに治り始めた。
それだけではない。魔王と戦っていたユーゴの傷も、トアレをようやく見つけ出したレナスロッテの傷も、等しく癒されていく。
対象の有無を問わず、この世界の下にあるすべての命を癒す。
それこそがマリエールの覚醒神器、『天使と貴方に微笑みを』の力であった。
そして、それは彼も例外ではない。
永遠の膨張を続けていた魔王が、そのとき動きを止める。
まとわりついてくる光の優しさに、ほんの一時ではあるが怒りを忘れた。
「■■■■■■■■■■■■■――ッ!!」
憤怒の化身は、次の瞬間、その事実に怒りを爆発させる。
ユーゴを無視し、この鬱陶しい光を飲み込まんと、マリエールに向けて拳を振り下ろした。
再び墜ちてくる憤怒の世界。たとえ覚醒に至ろうとも、マリエールではとても止めきれない絶死の鉄槌。
けれど、彼女はやはり揺れなかった。
セルンを優しく癒し続けることに専心を向ける。
信じているのだ。大丈夫だと。信頼してくれているのだ。こんな情けない自分を。
「……ありがとう、マリーちゃん」
彼女の優しさに抱きしめられて、リコリスの震えは止まった。
「死ぬのは怖い。だけど、大切な人を失うのはもっと怖い。だから、勇気を出せ! リコリス・ハーヴィン!」
それが――
「勇者だ!」
皆、それぞれが自分だけの勇者を心の中に持っている。その理想を目指して、戦ってきた。
リコリスにとってはこれがそう。恐怖を知りながらも、勇気をもって一歩を踏み出せる者。それが勇者だと思うから。
「私は勇者にはなれなかった。だけど、それでも心だけは勇者でありたい!」
セルンがそうであるように、自分もそうありたいと思うから。
リコリスは、一歩、魔王に向かって足を踏み出した。
「さあ、行くぞ!」
親友に背中を押され、リコリスは立ち向かっていく。
天墜の輝きを見上げながら、握りしめるのは右の拳。その手の甲で、爛々と白い光が輝きを発する。
ずっと、ずっと、閉じていた扉はシャルティエとの戦いで開かれた。そして今、リコリスは自分を理解する。
勇者候補として戦いを続けた日々の中、ようやく気付いた自分の愛。勇者としての在り方。それはなんてことのないの普通の願いだった。
大切な人に誇れる自分でありたい――そんな簡単な願いに気付くのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
きっと、甘えていたのだろう。
同じ願いを胸に抱いたセルンが、いつだってリコリスの代わりにその願いを叶え続けてくれていたから。彼の格好いい背中を見ているのが好きだったから、きっと甘えて気付かないふりをし続けてきたのだ。
だけど、シャルティエに叱咤されて、マリエールに背中を押され、そして彼が倒れて、ようやく目を逸らすことなく自分と向き合うことができた。
今度は、自分がセルンに格好いい背中を見せてあげる番だ。
「待たせてごめんね、私の神器」
墜ちてくる憤怒の世界に対し、リコリスは勇ましく右手を突きつける。
「神器解放――」
そして高らかに、自らの愛を此処に謳い上げた。
「輝け! 輝け! 輝け私の『愛と勇気の御伽噺』!!」
刹那、リコリスの右腕全体が輝き、空中に光り輝く五芒星を描きながら憤怒の世界とぶつかり合う。
そして――
「吹っ飛べぇえええええ――ッ!!」
気合い一発――真っ向から、魔王を殴り飛ばしてみせるのであった。




