第三話 黒からの誘い
コーラルはまどろみの中で夢を見ていた。
夢の中のコーラルがいるのは暗い部屋だった。その中央に、漂白されたかのような天蓋付きの白いベッドがぽつんと置かれており、コーラルはそこに寝かせられていた。
「ああ、嘘。ここって……」
コーラルにとって、ここは悪魔の寝台であった。
かつて実験場で、よくわからない薬を飲まされて寝かされたベッドだ。
そのあと、延々と耳元で人格を否定され続けた。お前はコーラルではない。ローリエなのだと呪文のように聞かされ続けるのだ。
そうすると、ベッドの天蓋には鏡が取り付けられているため、まるで自分自身にそう言われているような気がしてくる。自己否定。自己否定。気が狂いそうな時間だった。
悪魔の寝台から下ろされるたび、自分自身が消えていくのをまざまざと感じられて怖かったのを覚えている。もう二度とここには来たくないといつも思い、けれど何度も何度も寝かされては自己否定を繰り返されてきた。
その悪魔の寝台に、今再び寝かされている。
「やだ。やめて。ここから下ろして!」
コーラルは泣き叫ぶが、身体は自分の言うことを聞いてくれなかった。
そうこうしているうちに、耳元であの囁き声が聞こえてくる。
お前はコーラルではない。ローリエだと囁く自己否定の声が。
せめて鏡を見るまいと目を閉じようとするが、それすらもできない。
じっと、鏡の向こうから赤い髪の女が見つめ、語りかけてくる。
「お前はコーラルではない」
「違う。私はコーラルよ」
やっと自分の名前を取り戻したのだ。本当の自分を少しとはいえ取り戻すことができたのだ。それがコーラルにとって、どれだけ嬉しいことだったのか、きっと他の誰にもわからないくらい、本当に嬉しいことだったのだ。
だからお願い、奪わないで。
これ以上私から、私を奪っていかないで。
その一念をもって、コーラルは暗示に抗う。
「私は、ローリエなんかにはならない!」
『――ではどこまで抗えるか見せてもらおうかね』
どこからか、聞いた覚えのある残酷な声がした。
◇◆◇
セルンたち一行は、何事もなくユーストリアまで戻ってくることができた。
「セルンさん! リコちゃん!」
街の入り口で出迎えてくれたマリエールが、セルンとリコリスに駆け寄る。
「怪我はありませんか? あったらすぐに治療します」
「大丈夫だよ、マリーちゃん。私もセルンさんも元気だから」
「ああ、俺たちに怪我はない」
「よかったです」
マリエールはほっと胸を撫で下ろす。
その彼女の後ろから、レナスロッテがやってきてセルンに話しかける。
「ハスターの討伐に成功したようですね、セルン様」
「ああ。ハスターは間違いなく倒した」
「つまり覚醒を?」
セルンは頷く。レナスロッテの口が弧を描いた。
「それは素晴らしい! 是非ともお祝いをしなくてはいけませんね!」
「生憎だが、喜んでばかりもいられない。問題が起きたんだ」
「それはエルジェラントさんがいないことに関係あることですか?」
「ああ」
セルンはレナスロッテに、ローリエのことと彼女の裏切りを説明した。
「そうですか。彼女は本当にわたくしたちのローリエだったのですね」
「そうだ。そして、今なお理想を追い求めて、俺たちを裏切った」
「左様でございますか。……ローリエらしいとは言えばらしいですが、なんとも傍迷惑なことを」
「俺はローリエと戦うつもりだ。姫さん、いつどこでローリエが仕掛けてきても大丈夫なように、街の人たちを避難させる方法を練ってくれ。一度戦いを始めれば、周囲に気を配る余裕はないだろうからな」
「わかりました。手配致します」
レナスロッテはすぐに控えていたクリフに指示を出すと、歓迎の準備を始める。
「セルン様。ローリエはいつ頃くると予想されますか?」
「そうだな。ローリエからしても、あまり時間はかけられないはずだ。もたもたしていれば、俺が先に勇者に選ばれかねない。だから――」
「――二、三日中には来ると思うわよ」
「っ!?」
背後からいきなり声をかけられ、セルンたちは一斉に振り返った。
街から少し離れた草原に、紫色の髪を揺らす少女が立っていた。
彼女はスカートの裾を軽くつまんで持ち上げると、優雅に一礼してみせた。
「ごきげんよう、セルン・ベルクルト。少しお時間よろしいかしら?」
「ゼスティ・グリームニル!」
セルンがその名を呼んだ瞬間、その場の全員が戦闘態勢を整えた。
しかし魔王代行は慌てることなく、また敵意も見せることなく、おどけるように肩を竦めた。
「そんなに殺気立たなくても、もう虐殺なんてしないわよ。そんなことをしなくても、もうすぐ勇者が誕生する」
「ならなにをしに来たんだ?」
「さっき言ったとおりよ。セルン、あなたと少しお話しするために来たの」
「俺と?」
「そう、二人きりで話がしたい。代わりといってはなんだけど、あなたとローリエの戦いに介入しないことを誓いましょう」
「つまり断れば、決闘に介入すると?」
ゼスティは肯定するようにニヤリと笑う。
「……いいだろう。話を聞こうじゃないか」
「では美味しいお菓子が出るお店に、エスコートをお願いするわね」
ゼスティはセルンに近付いていくと、黒い聖痕の刻まれた左手を差し出した。
「ね? 最後の魔王候補さん?」
セルンは同じく、黒い聖痕の刻まれた左手で、その手をそっと引っ張るのだった。
街の入り口近くにあった喫茶店に場所を移し、人払いをした店内で、セルンはゼスティと同じ席について向かい合う。
「それで? 俺になんの用なんだ?」
「んー、美味しい!」
セルンの問いかけに対し、作り置きされていたお菓子を勝手に持ち出して、紅茶と一緒に楽しんでいたゼスティが、頬を押さえて幸せそうな声をあげる。
「おい。ふざけてるのか?」
「なによ。こんな物食べられる機会はこれが最後なんだから、少しくらいいいじゃない」
そう言って、セルンの責めるような目も気にすることなく、ゼスティは満足行くまでお菓子に手を伸ばす。
「大丈夫。独り占めなんてしないわ。好きなのを好きなだけ食べなさい」
「……俺はいい。お前と一緒に食べても味なんて楽しめない」
「むかっ」
ゼスティは目をつり上げると、ぷくりとその頬を膨らませた。
「可憐なお姫様に対して、失礼すぎる発言ね」
「お姫様? お前が?」
「そうよ。グリームニルは黒の世界では、一位、二位を争う大国の王家。わたしはその王女様よ」
「それにしては、なんともはしたない言動だな」
お菓子を手づかみで食べては、口元を汚している。とてもお姫様の食べ方とは思えなかった。
「口元が汚れてるぞ、お姫様」
セルンがその事実を指摘すると、ゼスティは頬を赤らめて慌ててぬぐう。
「そ、そうね。わたしをしても、レイリアを死に追いやったあなたとお菓子を食べても美味しくはないわ」
今更な発言をしつつも、ゼスティは姿勢を正して本題に入る。
それだけで店内の空気が張りつめていくのを感じた。閉じていたゼスティの額の瞳がうっすらと開き、怒りの感情が広がっていく。
かつては死を覚悟したその赫怒。けれど、今はそこまでは感じない。強大だとは思う。恐ろしいとも思う。けれど、勝てないとまでは思わなかった。
「セルン、あなた覚醒位階に至ったようね」
「ああ、そうだ。俺は勇者に選ばれる資格を得た。どうだ? そっちとしても嬉しいだろう?」
「そうね。嬉しいわ。これでどうあれ、聖戦を始められる」
「俺とローリエ、どっちが勝ってもそっちとしては構わないと?」
「ローリエが勝つに越したことはない。けれど、わたしはあいつを信じてはいない」
ゼスティはローリエへの隔意を隠そうともせず、嫌悪も露わに吐き捨てた。
「あれはダメね。理想しか見ていない。聖戦で魔王様に負けると言っていたし、それはきっと心からの言葉なのだろうけど、いざそのときが来て、そしてそのときに別の可能性を見つけたら、平然とこちらを裏切るでしょう」
「なるほど。ローリエのことをよくわかってる」
ゼスティはあのとき、ローリエを黒の世界に連れ込んで助けたが、本質的に仲間になったわけではないのだろう。
「だからこちらとしては、やはり聖戦には自分たちの力で勇者に勝つつもりで挑むことになる。そういう意味では、勇者をして見たローリエは得体が知れなくて怖い」
「それなら俺が勝って勇者になった方が与しやすいと?」
「そうね。けどよりそこを突き詰めるのなら、わたしたちが勇者になって欲しいのはたった一人よ」
そう言って、ゼスティはその名前を口にした。
「ユーゴ・テンペスター。そいつが勇者になってくれれば、こちらとしては万々歳よ。一番不確定要素が少ないもの」
「なるほどな」
たしかにユーゴもまだ、勇者に選ばれる可能性自体は残っている。セルンとローリエ、ユーゴの三人の中では、なるほどユーゴが一番わかりやすいだろう。
「それじゃあ、どうする? 俺とローリエの戦いに割り込んで、両方とも殺そうってか?」
「それもひとつの手だけれど、リスクの方が大きいわ。あなたたち二人を敵に回して勝てると確信できるほど、わたしは自分を過大評価はしていない。ここはやはり、ローリエがあなたに勝つことを願うのが選択肢としては無難でしょう」
セルンは解せなかった。結論が一回りしてそこに落ち着くのなら、わざわざ自分にそれを聞かせる理由がない。
「けれど」
セルンの訝しげな視線を受けて、ゼスティはこの話し合いの席を設けた、本当の理由を口にする。
「けれど、もしもあなたがわたしたちに協力してくれるのならば、ローリエを排除に動くべきだとわたしは思ってる。より正確にいうのなら、ローリエが覚醒しないように動くべきだとね」
「俺が、お前たちに?」
「そうよ。セルン。わたしはね、今日、あなたを誘いに来たの」
ゼスティは最後の魔王候補であるセルンに対し、手を差し出して、告げた。
「セルン。わたしたちの仲間になりなさい。魔王様の下で、勇者と戦いましょう」
「……そんな誘いに、俺が頷くとでも?」
「ええ、そうよ。きっとあなたなら頷いてくれる」
艶やかに微笑んで、ゼスティは切り札を切る。
「わたしたちの世界には、聖戦後にもその神器を残す手段がある。――聖戦が終わったあとも、ローリエと一緒にいたくはない?」
それはセルンにとって、望みながらも存在しなかった選択肢であった。




