9.治せると言ったら、治します
バルトスが漏らした、あの一言――「奥方様が亡くなった年は、馬がよく死にました」――は、私の中に、まだ言葉にならない冷たい違和感として居座っていた。動悸、脈の乱れ、そして急死。ステラの症状と、あまりにも似ている。奥方様。それは、5年前に亡くなった母、オフィーリアのことだ。
私は、その瞬間、自分の頭の中に、一つの冷たい仮説が生まれるのを感じた。もし、あの馬たちの死が、単なる偶然ではないとしたら?もし、それが、何かの意図を持っていたとしたら?
しかし、今はステラの治療に全神経を注いでいる。この一連の出来事を、今の私に処理する余裕はない。私は、その仮説を深掘する余地がないことを自覚した。追う余裕はない。ただ、目の前の命を救うことだけが、今の私の唯一の責務だった。
その状況を打開するため、私は決断を下さなければならなかった。ステラの回復は、私自身の精神状態と、公爵家への影響を考慮すると、限界が近づいていた。私は、父である公爵に、ステラの治療を自分に任せてほしいと願い出ることにした。
翌日、私は公爵の執務室を訪れた。重厚な扉の向こうで、父が書類に目を通しているのが見えた。緊張で喉が渇く。
「父上。ステラの治療を、私に任せていただきたい」
私の言葉に、公爵は顔を上げた。彼の表情は、いつものように重く、私を値踏みするかのように見えた。
「エリアーナ。お前はまだ、その立場にふさわしくない」
ユリウスが、静かに口を挟んだ。「父上、エリアーナは獣医としての才能がある。ステラの治療は、彼女に任せるべきです」
ユリウスの言葉は、私を擁護するものであったが、公爵の態度は変わらなかった。
「馬の治療など、令嬢の務めではない。お前は社交界の振る舞いを学ぶべきだ」
父の言葉は、私への期待ではなく、私への戒めだった。私は、彼が私を「令嬢」としてしか見ていないことを痛感した。私は、彼が求める役割を演じ続けることしか許されないのだ。
ユリウスは、私の決断を支持するようになり、公爵の反対を押し切ろうとした。しかし、公爵は頑なだった。
「お前は、自分の専門性を信じすぎている。それは、この家にとって何の役にも立たない」
その言葉は、私の中の確信を揺るがすものではなかった。むしろ、私の専門性が、この家にとっての「無価値なもの」であるという、冷たい事実を突きつけた。
私は、ユリウスの目を見た。彼の瞳には、私への信頼と、そして、この状況に対する深い諦めが混ざっていた。彼は、私の専門性を認めつつも、その代償を恐れているのだ。
私は、深く息を吸い込んだ。そして、初めて、感情を押し殺さずに、私の信念を表明した。
「私は嘘をつきません。助からないときは、助からないと言います。だから、治せると言ったときは、治します」
その言葉は、あの茶会以来、私が社交界で受け続けてきた冷たい評価の、その根源に触れるものだった。それは、私の職業倫理の宣言であり、同時に、この世界で私が生き抜くための、唯一の盾でもあった。
公爵は、私の言葉に長く沈黙した。その沈黙は、彼が私を完全に拒絶しているわけではない、という微かな隙を示していた。彼は、私の言葉の裏にある、冷徹なまでの正確さを、理解し始めていたのかもしれない。
長い沈黙のあと、公爵は静かに口を開いた。
「……わかった。ステラの治療は、お前に任せる。だが、その代償は、お前自身で払え」
それは、期限付きの許しだった。私の専門性を認め、その力を認めた、という形での、最も曖昧な承認だった。私は、その言葉をただ受け止めた。それは、起アークの終わりであり、私自身の戦いの始まりを告げる、静かな合図だった。




