7.冷たい令嬢
王都の社交界は、まるで凍てついた湖面のように静まり返っていた。それは、私たちが築き上げてきた名声が、一瞬にして氷の彫刻となって固まってしまったことを示していた。あの茶会で、私はハウエル夫人の愛犬の前に「助かりません。楽にしてやるべきです」と告げた。その一言は、貴族社会の耳には、情の欠如、冷酷さの象徴として刻み込まれた。そして、その一言が、私という存在の定義となってしまったのだ。
数週間が経過した。ステラの治療は、ようやく安定期に入った。しかし、その安定は、私自身の立場をさらに不安定なものにした。ユリウスは、以前よりも頻繁に厩舎を訪れるようになった。彼の視線は、かつての誇り高き騎士のそれではなく、どこか戸惑いと、微かな同情の色を帯びていた。彼は、私の診断の正確さを理解しつつも、その言葉がもたらす社会的な代償を、痛いほど感じているようだった。
公爵家の中では、私の存在は一種の異物と化していた。私は、社交の場では完璧な令嬢を演じなければならない。優雅な微笑み、適切な言葉遣い、そして何よりも、感情を表に出さない抑制。しかし、その仮面の下では、私は、自分の専門知識が、いかにして他者の感情を傷つけるかを知っている。
ある日の夕刻、私は継母のメルディナと、異母妹のクラリスと共に、舞踏会の準備について話していた。メルディナは、その優雅な仕草の裏に、鋭い観察眼を隠し持っている。彼女は、私の振る舞いを静かに、しかし容赦なく指摘した。
「エリアーナ。あなたは本当に、そのように冷たいのね」
メルディナの声は、甘く響いていたが、その内容は刃物のように鋭かった。私は一瞬、息を詰めた。
「冷たい、ですって?」
私は努めて平静を装い、問い返した。私の口調は、いつものように丁寧さを保とうと努めたが、その内側では、激しい動揺が渦巻いていた。
「ええ。皆がそう言うわ。生き物に対して、感情を挟まずに、ただ事実だけを突きつける。それは、優しさとは程遠い。まるで、感情を捨てた機械のようだわ」
メルディナは、まるで芸術作品を批評するかのように、私を値踏みするように見つめた。その視線は、私を「悪役令嬢」というレッテルに縛り付けるための、完璧な証拠のように機能していた。
「あなたは、その『冷酷さ』こそが、この家にとっての欠点だと、皆が思っているのよ」
彼女の言葉は、私を深く抉った。私は、自分が積み上げてきた、動物に対する深い共感と、それを正確に伝えるという職業倫理が、この世界では全く評価されないことを痛感した。私の診断は、常に正確だった。しかし、その正確さが、私を社会から孤立させ、私自身の存在を否定する武器となってしまったのだ。
「私は、ただ、事実を述べているだけです」
私は、感情を押し殺して答えた。しかし、その言葉には、微かな震えが混じっていた。それは、私がどれほど、この評価を心底受け入れがたいかを示していた。
クラリスが、その場に静かに近づいてきた。彼女は、いつも通り遠慮がちで、周りの空気を読むのが得意な少女だ。しかし、その瞳の奥には、姉に対する複雑な感情が宿っているように見えた。
「お姉様は、本当に、何も感じないのね」
クラリスの言葉は、責めるものではなく、ただの観察だった。彼女は、私の心の奥底にある、感情の欠落を指摘しているようだった。
「感じている、というよりは、事実を処理しているだけよ」
私は、自分の内面をさらけ出すことを拒んだ。もし、私が感情を認めてしまえば、それは私の「冷酷さ」の証明になってしまうだろう。私は、この世界で生き残るために、感情を完全に封印しなければならない。
その時、メルディナが再び口を開いた。彼女は、まるで全てを見透かしたかのように、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「エリアーナ。あなたは、生き物を前に『助からない、楽にしてやれ』と仰った方ですもの。その言葉は、人を傷つける。そして、その傷が、あなた自身の評価を決定づけているのよ」
その瞬間、私は全身の血が凍りつくのを感じた。それは、私が最も恐れていたことだった。私の行動が、意図せずして、私自身を最も深く傷つける原因となってしまったのだ。私の診断は、正しかった。しかし、その正しさが、私を社会から切り離すための、最も強力な刃となってしまった。
社交界の空気が、再び重く沈み込む。私の周りを取り巻く空気は、私を責める声と、私を憐れむ視線で満たされていた。私は、自分が積み上げてきたものが、何一つ味方をしてくれないことを、痛感した。私は、ただの「冷酷な令嬢」として、この世界に存在しているだけなのだ。
私は、自分の存在そのものが、この社会の不条理なルールによって定義されてしまっていることを悟った。私は、自分の専門性を信じていた。だが、その専門性が、私を社会の規範から外れた存在として突き放すのだ。
私は、ただ立ち尽くした。何も言い返せない。ただ、この冷たい現実を、受け入れるしかなかった。私の積み上げてきたものが、全て無意味なものになっていくのを感じながら。




