5.崩れ落ちる名馬
早朝の冷気が、厩舎の湿った空気を一層冷たくしていた。夜の帳が明け、薄明かりが石造りの壁をわずかに照らす。その光の中、私はステラの姿を捉えた。彼女は、まるで打ち捨てられた彫像のように、厩舎の隅で痙攣していた。全身の筋肉が硬直し、浅い呼吸が絶え間なく繰り返されている。瀕死の状態だ。
私は、一瞬で思考を切り替えた。感情を挟む余地はない。ただ、目の前の事態を、病理として、冷徹に見極めることだけが、今の私に求められている。前世で培った知識が、この現実の危機に直結する。
私は迷わず駆け寄った。貴族令嬢としての優雅さなど、この瞬間には何の役にも立たない。ただの獣医だ。私は、ステラの傍らに膝をつき、その体温を確かめるように、そっと触れた。皮膚は冷たく、微かに震えている。
「ステラ、目を覚ましてください」
私の声は、静かで、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。それは、社交界で私が纏う仮面とは全く異なる、職業人としての、絶対的な権威の響きだった。
まず、脈を取った。首の脇に指を当て、数える。速い。異常に速い。しかも、四拍か五拍に一度、脈が抜け落ちる。
粘膜を見た。歯茎の色が、煉瓦のような暗い赤に変わっている。押しても、色がなかなか戻らない。
瞳孔を見た。開いている。
そして、痙攣の型を見た。全身が大きく波打つのではない。細かく、絶え間なく震えている。
グラナの根だ。間違いない。
私は、頭の中で処置の順序を組み立てた。この毒に、解毒剤と呼べるものは存在しない。できることは三つしかない。**まだ胃に残っている分を、これ以上吸わせないこと。すでに吸われた分の、心臓への影響を抑えること。そして、時間を稼ぐこと**。
馬は吐けない。だから、胃の中身は口からは出せない。
「バルトス、炭を。厨房の竈から、燃えさしの炭を持ってきて。それと、水を桶に」
「炭、でございますか」
「早く」
私は管を取り出した。鼻から胃まで通す、あの細い管だ。ステラの頭を膝に抱え、鼻孔から差し入れる。痙攣している馬に管を通すのは、健康な馬の何倍も難しい。首の左側に手を当て、管が食道を降りていく感触を確かめた。気管ではない。通った。
バルトスが炭を持ってきた。私はそれを砕いて水に混ぜ、黒い泥のような液体を作り、管から胃へ流し込んだ。
炭は、毒を吸い着ける。前世では活性炭という精製されたものを使っていたが、原理は同じだ。胃に残った分が腸から吸われるのを、これで少しでも減らせる。
次に、水だ。大量の水を、同じ管から入れた。体の中の毒を薄め、腎臓から流し出させるために。桶で三杯。腕が痺れるほど注いだ。
そして最後に、前夜に調合しておいた薬を取り出した。心臓の拍動を落ち着かせるためのものだ。首の血管を指で探り、針を入れ、ゆっくりと押した。速く入れれば、それ自体が心臓を止める。私は数を数えながら、一定の速さを保った。
処置を終えて、私はまた脈に指を当てた。
数える。
まだ速い。だが、抜け落ちる頻度が、四拍に一度から、七拍に一度に減っていた。
もう一度数えた。八拍に一度。
私は、そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
私は、処置を終え、ステラの顔をそっと撫でた。その瞬間、私は、自分がどれほど無防備な状態で、他者の命を預かっているのかを痛感した。ドレスの裾は、すでに泥と、こぼれた炭の泥水で真っ黒に汚れていた。しかし、その汚れた姿も、私の仕事の一部だ。
その時だった。ステラが、微かに、しかしはっきりと、私の方を向いた。その瞳は焦点が定まっておらず、混乱と、わずかな安堵が混ざり合っていた。
その視線が、厩舎の入り口に立っていた人物たち――ユリウス、そして、その場に居合わせた数人の馬丁たち――を捉えた。彼らの視線は、私に向けられていた。それは、憐憫や驚愕、そして、私という存在に対する、異様なまでの探求の眼差しだった。
ユリウスが、その場に立ち尽くしていた。彼の顔は青ざめ、その瞳は私を捉えて離さない。彼は、私がこれほどまでに迅速かつ的確に処置を行う姿に、言葉を失っていた。
「……なぜ、そんなに手際がいい」
ユリウスの呟きは、空気の振動となって、厩舎全体に響いた。それは賞賛とも、畏怖とも取れる、複雑な感情の表明だった。私は、その視線を受け止めた。私は何も答えない。ただ、ステラの安定した呼吸を確かめるように、静かに、しかし確固たる意志をもって、その場に立ち続けた。
その異様な視線こそが、私にとっての、新たな試練の始まりだった。私は、自分が「冷たい令嬢」という悪評を負うこと以上に、この「正確さ」が、人々の心にどのような影響を与えるのかを、今、肌で感じ始めていた。




