4.誰にも言えない観察
夜の帳が降り、公爵家の邸宅の静寂が、私を厩舎へと誘った。社交界の華やかな仮面を脱ぎ捨てたこの場所は、湿った藁と、馬の汗、そして微かな消毒液の匂いが混ざり合い、私にとっての真実の匂いだった。ここでは、貴族としての体裁など意味をなさない。あるのは、ただ生きているか死んでいるかという、生々しい現実だけだ。
私は、ユリウスの愛馬ステラの心音に潜む微かな不協和音を、無視することを決めた。あの夜、彼女の胸に手を当てて聞き取った不整は、私の内側で警鐘を鳴らし続けている。しかし、その警鐘を鳴らすことは、私自身の立場を危険に晒す。もし私がこの不整を指摘すれば、それは単なる令嬢の憶測として処理され、私の専門的な見立ては、ただの「変わり者の妄言」として嘲笑されるだろう。
私は、その沈黙を選んだ。前世で学んだ獣医の倫理は、人間に向けたものではなく、動物という存在に向けられたものだ。彼らの苦しみを理解し、最善の処置を行うこと。その行為が、社会的な評価によって歪められることを、私は知っている。だからこそ、私はその知識を、密やかに、そして独りで処理しなければならない。
夜が更け、厩舎の奥深くへと忍び込む。石造りの壁は冷たく、外の闇とは隔絶された空間だ。ここでは、馬たちの呼吸音だけが、私の唯一の伴侶となる。私は、静かに、まるで影のようにその場に溶け込む。
ステラは、他の馬たちとは異なり、静かに、しかし明らかに苦しんでいる。彼女の体は、微細な痙攣を繰り返しており、その呼吸は浅く、不規則だ。私は、音を立てないように、その傍らに膝をついた。
私は、感情を一切挟まず、ただ観察する。前世の記憶が、この現実の光景と重なり合う。馬の皮膚の張り、呼吸の浅さ、筋肉の緊張。全てが、病の進行度を物語っている。私は、その情報を頭の中で整理し、前世で学んだ病理の知識と照合する。
心臓の鼓動を聴く。規則正しいはずのリズムの中に、ごくわずかな、しかし明確な不整が混じっている。数拍に一度、リズムが乱れる。それは、まるで遠くで響く不協和音のようだった。私は、その音を、ただ聴き続ける。
原因は、何だろうか。栄養の偏りか。あるいは、何らかの内部的な炎症か。あるいは、外的な毒物か。考えが次々と巡るが、どれもが、私自身の行動を露呈させる危険を孕んでいる。
私は、その不整脈の原因を探るため、厩舎の隅々までを調べ始めた。水桶の水の質、飼葉の鮮度、糞の状態。前世の知識が、この世界の動物たちの生態と結びつく。グラナの根のような、微量ながらも致命的な毒物が、馬の体内に蓄積している可能性を疑う。
三日目の夜、厩舎の裏手で人影とすれ違った。
継母付きの侍従、ヴェルナーだった。細身の、物腰の柔らかい男で、公爵家に仕えて長い。彼は私を見ると、深く一礼した。
「エリアーナ様。このような時刻に」
「あなたこそ」
「奥様のお申しつけで、馬車の支度を確かめておりました」
もっともな話だった。彼はいつも、こういう細かな用を言いつけられている。私は頷き、彼は静かに去っていった。
その時の私は、彼の手が空だったことにも、彼が向かってきた方角が馬車溜まりではなく厩舎の内側だったことにも、まったく注意を払わなかった。ステラの心音のことで、頭がいっぱいだったからだ。
私は、その可能性を検証するため、前世で学んだ知識を駆使し、密かに解毒薬の調合を始めた。それは、公爵家の薬草とは無関係な、私自身の知識に基づいた、純粋な処置だ。数日かけて、微量の成分を慎重に混ぜ合わせ、必要な濃度を計算する。この作業は、極めて繊細で、一瞬の油断も許されない。
解毒薬を調合し終え、それは小さなガラス瓶に収められた。私はそれを、隠し持った衣服の隙間にそっと忍ばせる。この薬を投与すれば、ステラの症状が緩和されるかもしれない。だが、もしこれが原因でなければ、ステラに不必要な負担をかけることになる。
誰にも言わない。言えば、私の獣医としての活動が露見する。公爵家の名誉に関わる醜聞になりかねない。バルトスには、この密かな活動を相談した。彼は無言で頷き、ただ「お嬢様は、ご自身のやり方で、最善を尽くされている」とだけ言った。彼の沈黙は、私への庇護であると同時に、私を孤立させるための、冷たい壁でもあった。
私は、この密やかな作業を続ける。ステラの状態は、わずかに安定し始めたように見えた。しかし、根本的な原因が解決するわけではない。私は、ただ、この不確かな希望を抱きながら、夜の厩舎で、静かに、そして孤独に、真実を探り続けるしかなかった。私の行動は、誰にも知られることなく、ただ私自身の判断と、動物への責任感によってのみ駆動されていた。それは、冷酷な判断であり、同時に、私自身の生存戦略でもあった。




