3.ステラの心音
「エリアーナ、見てくれ。ステラだ」
昼下がり、鍛錬場の脇の柵の前で、ユリウス・ヴァレンシュタインが誇らしげに愛馬を紹介した。次期近衛騎士団長となるべく研鑽を積む彼にとって、この栗毛の名馬は、剣と並ぶもう一つの誇りだった。彼が手綱を引くと、ステラは軽やかに首を振り、その毛並みが陽光を弾いて輝いた。
「見事な馬ね」
私は、令嬢らしい微笑みを浮かべながら答えた。その言葉に嘘はない。だが、私の視線は、既に馬体の些細な変化を捉え始めていた。前世で染み付いた癖だ。どれほど社交の仮面を被っていても、動物を前にすると、私の意識は勝手に病理を探し始めてしまう。
「触れてみるといい。人にもよく懐く」
ユリウスに促され、私はステラに歩み寄った。撫でるふりをして、その胸にそっと手を当てる。その温もりは、予想していたよりもずっと熱を帯びていた。前世の記憶が、この現実の光景と重なり合う。馬の皮膚の張り、呼吸の浅さ、筋肉の緊張。全てが、病の進行度を物語っている。私は、感情を排し、ただその状態を観察する。
その時、心臓の鼓動が、私の耳に届いた。規則正しいはずのリズムの中に、ごくわずかな、しかし明確な不整が混じっている。数拍に一度、リズムが乱れる。それは、まるで遠くで響く不協和音のようだった。
言うべきだ。この不整脈は、心臓の負担が増している証拠だ。しかし、その言葉を発する前に、あの茶会の光景が頭をよぎった。凍りついた場。悲鳴を上げるハウエル夫人。一斉に私を見た令嬢たちの目。あの時も、私はただ、見えたものを言っただけだった。そして、その言葉が、いかに容易く、そして容赦なく、他者の評価を招くかを知っている。
私は、口を開きかけた。
その時、ユリウスが言った。
「来月の叙任の式で、この馬に乗る」
私は、彼を見上げた。
「近衛の副長に上がる。父も来る。……父は、俺が騎士になると言ったとき、三年、口をきかなかった人でな」彼は、ステラの首を撫でながら、少し照れたように笑った。「その父の前を、この馬で通る。子供の頃から、そればかり考えていた」
彼の顔は、私が今まで見たどの表情よりも、無防備だった。
「エリアーナ。君にも、見てもらいたい」
心臓が、一つ、大きく鳴った。
私の口の中には、まだ言葉があった。**この馬の心音に、不整があります**。たった一文だ。それを言えば、この人は式のことも、父親のことも、全部いったん脇に置いて、私の言葉を聞くだろう。彼はそういう人だ。
そして、その一文の根拠を問われる。なぜ分かるのか。誰に習ったのか。いつから馬に触れているのか。
答えれば、私が夜な夜な厩舎に出入りしていることが露見する。公爵令嬢が獣番の真似事をしている。それは醜聞になる。私だけではない。この人の婚約者が、という形で、この人の名にも傷がつく。叙任を控えた、この人の。
——それに、と私は思った。
まだ、確かではない。数拍に一度の乱れは、興奮しているだけかもしれない。もう少し観察してから言えばいい。確かめてから言えばいい。
そう考えた瞬間に、私は自分が逃げ道を作ったことを知った。
私は、この5分ほどの間に、告げないことの理由を三つも並べていた。前世を通じて、私は一度もそんなことをしたことがない。飼い主の都合を理由に診断を遅らせたことは、一度もない。
「……立派な馬ですね」
私の口から出たのは、それだった。
ユリウスは、嬉しそうに頷いた。
「だろう」
私は、ステラの胸から手を離した。
その手のひらには、まだ、あの乱れた拍が残っているようだった。
屋敷に戻る道すがら、私は自分に言い聞かせた。まだ確かではない。もう少し観察する。原因を突き止めてから、根拠を揃えて、然るべき形で伝えればいい。それが最も確実で、最も被害の少ないやり方だ。
理屈は、どこも間違っていなかった。
ただ一つ、私は勘定に入れ忘れていた。
**この世には、こちらの準備が整うまで待ってくれない毒がある**。
私が根拠を揃えている間にも、あの馬の飼葉には、毎晩、少しずつ何かが混ぜられていた。私はそれを、後になって知ることになる。
私が生涯でただ一度、告げることを選ばなかった夜のことだった。




