2.夜の厩舎
王都の喧騒が遠のき、夜の帳が降りる頃、私は公爵家の邸宅を抜け出した。社交界での冷たい視線は、まだ肌にまとわりついていた。私は、表向きは完璧な令嬢であり続けなければならない。その仮面の下で、私は前世の記憶と、この世界の冷酷な現実との間で、常に綱渡りをしていた。
婚約者であるユリウス・ヴァレンシュタインは、次期近衛騎士団長となるべく、その誇り高き身を磨いている。彼は剣と馬に忠実で、その一途さは、私のような曖昧な存在とは対極にある。食卓では、継母メルディナと異母妹のクラリスと、形式的な会話を交わす。彼女たちの会話は、すべてが表面的な優雅さで構成されており、その裏には、この家が抱える重い秘密が、微かに澱んでいるように感じられた。
「エリアーナ、今日の午後の予定は?」メルディナが優雅に尋ねた。彼女の口調は常に洗練されており、その優雅さこそが、この家が守ろうとしている「体面」そのものなのだろう。
「はい、お母様。午後は書斎で、領地の管理に関する資料を拝見いたします」私は、完璧な微笑みを浮かべながら答えた。その微笑みは、前世で学んだ、社交の場での適切な距離感を示すための訓練されたものだ。
クラリスは、控えめに頷いた。「お姉様は、いつもお仕事に熱心でいらっしゃいますね」その声には、どこか遠慮がちで、私への畏敬の念が滲んでいる。彼女は、母から厳しく禁じられている動物への関心について、決して口にしない。その沈黙が、私と彼女の間に、見えない壁を作っている。
私は、その会話の空虚さを感じながら、自室へと戻った。社交の場での振る舞いは、計算された演技だ。しかし、その演技の裏側で、私の心は、常に獣医としての鋭敏な感覚を求めていた。
真夜中。公爵家の広大な敷地を抜け、私は人目を忍んで厩舎へと向かった。石造りの壁と、湿った藁の匂いが、外界の喧騒とは全く異なる、生の匂いを放っている。ここは、貴族社会の華やかな仮面が剥がれ落ちた場所だ。ここでは、ただ馬の苦しみと、病の現実だけが存在する。
目的はただ一つ。疝痛を起こした荷馬の治療だ。
厩舎の奥深く、薄暗い一角で、馬が苦しんでいるのが見えた。その馬は、激しい痙攣を起こし、呼吸が浅く、苦しそうに喘いでいる。その姿は、私が見てきたどんな症例よりも、生々しく、絶望的だった。
私は音を立てないように、静かに馬の傍らに膝をついた。前世の記憶が、この現実の光景と重なり合う。馬の皮膚の張り、呼吸の浅さ、筋肉の緊張。全てが、病の進行度を物語っている。私は、感情を排し、ただその状態を観察する。
私は、馬の左の脇腹に耳を押し当てた。
腸の音を聴く。健康な馬なら、ここで水音混じりのごろごろという音が、絶えず聞こえている。
聞こえない。静かすぎる。
場所を変えて、四箇所すべてで聴いた。右の上、右の下、左の上、左の下。どこも同じだった。腸が止まっている。
次に腹の張りを確かめた。左の脇腹が、明らかに膨れている。指で弾くと、太鼓のような音が返ってきた。ガスだ。腸の一部にガスが溜まって、膨れ上がっている。
私は、この馬に何をすべきかを決めた。そして、何をしてはいけないかも。
**馬は、吐けない**。
前世で最初に叩き込まれたことの一つだ。馬の胃と食道の境は、一方通行の弁のようになっていて、一度入ったものは戻せない。だから馬は、胃が破れるまで吐けない。人や犬のように吐かせて楽にしてやることが、この生き物には原理的にできない。
代わりに、通り道を作ってやる。
私は、用意しておいた細い管を取り出した。羊の腸を乾かして油を染ませたもので、これを鼻の孔から入れ、喉を通し、胃まで届かせる。前世の道具に比べれば粗末だが、原理は同じだ。
「バルトス、頭を」
いつの間にか傍に来ていた男が、無言で馬の頭を支えた。
管を鼻孔に差し入れる。ここからが難しい。喉の奥で、管は食道と気管の二つの道に行き当たる。気管に入れれば、この馬は溺れて死ぬ。
私は、馬が唾を飲み込む瞬間を待った。飲み込むとき、食道の口が開く。その一瞬に、管を押し込む。
首の左側に手を当てて、管が通っていく感触を確かめた。皮膚の下を、細いものが滑っていくのが分かる。食道だ。気管なら、こうは触れない。
管の端から、生温かい気体が音を立てて抜けていった。
馬の脇腹が、目に見えて萎んでいく。
私は続けて、管から少量の油を流し込んだ。詰まった内容物を柔らかくして、送り出すためのものだ。それから管を抜き、馬の腹をゆっくりと押した。
もう一度、耳を当てる。
音がした。かすかだが、確かに、水の混じったごろごろという音が戻っていた。
私は、息を吐いた。
「歩かせます。止めないで、ゆっくり、ずっと」
転がって痛みを紛らわそうとする馬を寝かせておくと、腸がねじれることがある。ねじれれば、この時代のこの場所では、もう助からない。私はバルトスと交代で、その馬を厩舎の通路で歩かせ続けた。
一刻ほど経った頃、馬が糞を落とした。
それが、この夜の勝利だった。誰も見ていない、誰も褒めない、糞が一つ落ちただけの勝利。私は、その汚れた藁を見下ろしながら、久しぶりに息が楽になるのを感じていた。
ここでは、私の判断が誰かの評価に左右されない。ただ、腸が動くか動かないかだけが問われる。それは、私にとって、この世界で最も呼吸のしやすい場所だった。
その時だった。
「エリアーナ?」
低い、しかし確かな声が響いた。私は反射的に顔を上げ、厩務員長であるバルトスと視線が交差した。彼は、私がここにいることに驚いたようだったが、すぐに表情を硬くした。
「バルトス様」私は静かに挨拶した。
バルトスは、何も言わずに私の傍らに立ち、処置の様子を静かに見つめていた。彼の視線は、私の手つき、薬草の扱い、そして馬の苦しみに注がれていた。彼は何も言わなかったが、その沈黙が、ある種の共感を湛えているように感じられた。
処置を終え、馬がようやく落ち着きを取り戻したのを確認する。私は、静かに立ち上がり、馬の体調を最終確認した。全てが安定している。
バルトスが、ようやく口を開いた。その声は、囁きのように静かだった。
「お嬢様は……亡き奥方様に似ておいでです」
その言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも個人的だった。私は一瞬、思考が停止した。亡き奥方? 私は、母オフィーリアのことを、ほとんど覚えていない。彼女が死んだのは、私がまだ「令嬢として振る舞おう」と必死に努力していた頃だった。5年前の出来事だ。
私は、その言葉の意味を理解しようと努めたが、言葉にならない。ただ、その言葉が、私の心に微かな波紋を広げるのを感じた。この厩舎の空気は、ただの馬の臭いと汗の匂いだけではなく、過去の記憶の残滓を含んでいるように感じられた。
私は、何も答えなかった。ただ、静かに頷き、馬の世話を終えた。バルトスはそれ以上何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
私は、この厩舎で、ただの獣医として、命を救うという行為に集中する。しかし、その夜、私は一つの確信を得た。この場所、この馬たちとの関わりこそが、私自身の存在証明であり、この世界で私が持つべき、唯一の真実なのだと。そして、その真実が、いつか、私を再び、あの冷たい社交界へと引き戻すことになるかもしれない、と。




