1.助かりません
王都の茶会は、アルダーシャ王国の貴族たちの虚飾と、上流階級特有の退屈な会話で満ちていた。重厚なベルベットのドレスが擦れ合い、香水の甘い香りが空気を支配する。私は、その喧騒から一歩引いた場所にいることを選んだ。視線は、中央で優雅に微笑むハウエル夫人の愛犬、白銀の毛並みが、微かに震えている様子に注がれていた。
「まあ、可哀想に」
隣に座る一人の令嬢が、憐れみの響きを混ぜて囁いた。その声には、共感というよりも、憐憫の色が濃い。
「きっと、すぐに良くなりますわ。きっと、このお嬢様は、強い体質をお持ちでしょう」
周囲の女性たちが、一斉に同調する。その声は、私に向けられたものではない。私を、その場にいる「異物」として認識している。私は、この場にいることを許されていない。私の存在そのものが、この優雅な社交の調和を乱すものだと、皆が理解している。
私は、その視線から逃れるように、静かに膝をついた。白銀の毛皮が、私の存在を拒むかのように、微かに身を硬くする。私は、その老犬の腹部にそっと手を触れた。指先が触れる皮膚の感触は、熱を帯び、不規則な痙攣を伴っていた。前世の記憶が、この現実の冷たい感触と重なり合う。あの時と同じ、動物の苦しみが、今も鮮明に蘇る。
私は、何も言わなかった。ただ、その状態を観察する。前世で、私は雨宮澪として、馬の苦しみに向き合った。その時も、私はただ、その苦しみを正確に見極めることだけを学んだ。感情を挟む余地はない。ただ、病理を見極め、最善の処置を判断する。それが、獣医としての私の、そして、この世界で生き抜くための唯一の術だった。
しかし、今回は違う。私は、その冷徹な判断を、社交界という名の檻の中で試されることになる。
私は、ゆっくりと、しかし確信を持って、犬の腹部を触診した。粘膜のわずかな変化、臓器の圧迫具合。前世で培った知識が、瞬時に現実のデータと結びつく。腹腔内の臓器が、明らかに破綻している。それは、単なる衰弱ではない。内部からの崩壊だ。
私は、感情を一切込めずに、静かに口を開いた。その声は、予想以上に低く、抑揚がない。
「助かりません」
その一言が、静寂を切り裂いた。茶会全体が、まるで凍りついたかのように息を呑む。
「腹の中で臓器が破れています。楽にしてやるべきです」
私の言葉は、事実を述べているに過ぎない。それは、獣医としての、最も正確なトリアージの結論だった。しかし、貴族社会にとって、それは「情のなさ」という名の、最も忌避される感情の欠如として受け取られたに違いない。
場の空気は一瞬で凍てついた。ハウエル夫人の顔から血の気が引き、悲鳴が漏れる。彼女の愛犬は、私の言葉によって、その場にいる全員の視線を集める、最も醜い存在と化してしまった。
「な、何を仰るのですか!」
令嬢たちが慌てて声を上げる。その声には、驚愕と、私に対する明確な拒絶が混じっている。彼らは私の言葉の「内容」ではなく、その「発し方」を糾弾しているのだ。
継母であるメルディナが、優雅な笑みを浮かべながら、一歩前に進み出た。彼女の表情は穏やかだが、その瞳の奥には、冷たい嘲りが宿っている。
「まあ、エリアーナ。あなたはまた、そういうことを」
メルディナの言葉は、私への非難ではなく、この場全体の秩序に対する指摘だった。彼女は、私の行動を「令嬢らしからぬ醜聞」として、公然と糾弾している。それは、私が動物に対して持つべき、最も誠実な態度が、この世界では最も危険な武器となってしまったことを意味していた。
私は、その視線を受け止めた。前世で、同じような言葉を吐き、同じように恨まれた記憶が蘇る。あの時も、私はただ、事実を述べただけだ。だが、その事実は、私を孤立させるための燃料となった。
私は、何も言い返さなかった。ただ、その場にいる全員の、凍りついた視線を、静かに受け止めるだけだった。私の口から出た言葉は、正しかった。だが、その正しさが、私を悪役令嬢というレッテルに縛り付ける鎖となってしまった。
私は、その場を後にした。馬車に揺られながら、私は前世の記憶を反芻する。日本の獣医だった頃も、同じことを言って、同じように恨まれた。8歳のとき、狩猟の外出中に毒キノコを食べた猟犬を救ったことが、全てを変えた。あの時、私は初めて、自分の知識と、その知識が持つ重みを理解した。
この世界では、その知識が、私を救うどころか、私を断罪する刃となってしまう。私は、ただ、目の前の現実を正確に見極めることしかできない。その冷徹さが、私を「冷酷な令嬢」という悪評の源泉にしているのだ。
私は、この重い沈黙を背負いながら、次の行動を静かに決意する。この悪評を、ただ受け入れるわけにはいかない。私は、この世界で、私の正しさを証明しなければならない。たとえそれが、誰かを傷つける形であっても。




