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29.お姉様みたいに

クラリスが私の部屋の扉を叩いたのは、狩猟祭を2日後に控えた夜だった。


彼女は、寝衣の上に外套を羽織っただけの姿だった。廊下の冷気を連れて入ってきた彼女の唇は、青ざめていた。私が椅子を勧めても座らず、扉に背をつけたまま立っている。逃げ道を確保する者の立ち方だった。


「クラリス。どうしたの」


彼女は答えない。両手を胸の前で握り合わせて、床を見ている。その指が震えているのが、灯りの下でもはっきり分かった。


私は、何も言わずに待った。動物を診るとき、怯えている個体を急かしてはいけない。近づくのではなく、こちらが動かないことで安全を示す。それは人間相手でも同じらしかった。


長い沈黙のあと、彼女は口を開いた。


「狩猟祭で、お姉様が、罪を着せられるの」


灯りの芯が、小さく爆ぜた。


「……続けて」


「獣に、薬を打つの」彼女の声は、告白というより、暗記したものを吐き出すような調子だった。「狩りで放つ魔獣に、興奮する薬を。たくさん打って、暴れさせるの。それで、その獣の世話を任されていたのがお姉様だということにして——お姉様が管理を誤ったから、貴族の方々が危険な目に遭った、ということにするの」


「それは、誰の計画」


彼女は、答えなかった。答えないことが答えだった。


「婚約の破棄と」彼女は続けた。「継承権の、剥奪まで。そこまでやるって、お母様が」


言ってしまってから、彼女は自分の口を手で押さえた。「お母様」と言ってしまったことに、今気づいたという顔だった。


私は、頭の中でいくつもの断片が繋がっていくのを感じていた。メルディナの上機嫌。クラリスの衣装への異様な熱の入れよう。狩猟祭に向けて急に勢いを増した私への悪評——あれは、当日の「証言者」を事前に育てておく作業だったのだ。すでに私を疑っている人間が大勢いれば、当日は何も説明しなくていい。ただ「エリアーナ様の区画から出た獣だ」と誰かが一言叫べばいい。


よくできている。私は、そう思った。人間の心を、飼葉の配合のように正確に計算している。


「薬の名前は分かる?」


「……分からない。でも、お母様が『闘技場の連中が使うもの』って。それと、量を間違えるなって、何度も言っていたわ。少なければ効かないし、多すぎればその場で死ぬからって」


闘技用。少量で興奮、過量で心停止。出所は限られる。私の中で、対象の候補が数種類にまで絞られた。


「クラリス」私は、彼女の目を見た。「なぜ、私に話すの」


これは、確かめておかなければならないことだった。彼女は継母の娘だ。この計画が成功すれば、公爵家の跡継ぎは彼女になる。彼女には、黙っている理由しかない。


クラリスは、初めて顔を上げた。


「良心とか、そういうのじゃないの」


意外なほど、はっきりした声だった。


「私、悪いことだと思って来たんじゃない。……ううん、悪いことだとは思う。思うけど、それだけなら、たぶん来なかった。私、そんなに立派じゃないもの」


彼女は、握り合わせていた手を、ようやくほどいた。


「私、お姉様みたいになりたいだけ」


その言葉は、私が予想していたどの答えとも違っていた。


「小鳥の翼を、お姉様が留めてくれたでしょう。あの木の枝と、細い布で。あの時、私、何を見ていたと思う?」彼女は、少し笑った。泣きそうな笑い方だった。「鳥じゃないの。お姉様の手を見ていたの。手が、迷わなかったの。何をすればいいか分かっている人の手だった。私、あんな手が欲しいと思ったの」


「クラリス——」


「私がこのまま黙っていたら、お母様の計画は上手くいって、私はきっとこの家を継ぐわ。ドレスを着て、お茶会に出て、動物には二度と触らないで生きるの」彼女の声が、少しずつ強くなっていった。「そんなの、私じゃない。それは、お母様が着せたい人形だわ」


私は、この子を見誤っていた。ずっと、母に怯える気弱な少女だと思っていた。違う。この子は、自分が何になりたいかを、既にはっきり知っている。知った上で、そのために最も高い代償を払う道を、今この場で選んでいる。


「あなたがこれを話したことが知られたら」私は、事実を告げた。それしかできない。「あなたは、母親を失うことになる」


「知ってる」


即答だった。


「知ってるわ。ずっと考えていたもの。3日も考えたのよ」彼女は、少し誇らしげに言った。「それでも、来たの」


私は、彼女に歩み寄って、その冷えた手を両手で包んだ。この子の手は、まだ小さい。だがこの手は今夜、生涯で最も重いものを持ち上げた。


「ありがとう」


「お姉様が助かる方法、あるの?」


「分からない」私は正直に答えた。「薬を事前に押さえることはできない。証拠がないまま告発すれば、私が嘘つきになるだけ。今のままでは、たぶん、私は罪を着せられる」


クラリスの顔が、みるみる青くなった。


「じゃあ——」


「でも」私は続けた。「獣に打たれた薬は、獣の体の中に残るわ」


彼女は、意味が分からないという顔をした。


「人は嘘をつくの。証言も、書類も、いくらでも作り替えられる。でも、薬を打たれた体は嘘をつかない。瞳孔も、汗も、痙攣の型も、打たれた通りのことしか起こさない」


私は、自分の言葉が、自分の中で形になっていくのを聞いていた。この2日で薬を差し押さえる道はない。ならば、証拠は当日、あの獣の体の上にしか存在しない。


つまり私は、暴れている獣に、触れなければならない。


「お姉様?」


「なんでもないわ」私は微笑んだ。「あなたは、当日は私に近づかないこと。話しかけてもだめ。目も合わせないで。いいわね」


「でも——」


「あなたが疑われたら、私はあなたを守れない。これは私の仕事だから、私にやらせて」


クラリスは、しばらく私を見つめていた。それから、こくりと頷いた。


彼女が部屋を出て行ったあと、私は灯りの前で、しばらく動かずにいた。


闘技用の興奮剤。量を誤れば即死。私が知る限り、その系統の薬に確実な解毒剤はない。できるのは、鎮静をかけて心臓が保つのを祈ることだけだ。しかもそれを、暴れている獣の首元に、走りながら打つ。


前世の私なら、この処置を提案されたら止めただろう。無謀だと言って。


私は机に向かい、明日調合するものの一覧を書き出し始めた。手は、震えていなかった。


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