28.父の沈黙
公爵の書斎の重厚な扉を閉めた瞬間、私は全身の力が抜けるのを感じた。それは、戦いの終わりではなく、新たな、より深い迷宮への入り口を前にしたような感覚だった。メルディナの鋭い指摘と、彼女が私を静かに引き戻そうとする圧力は、私を追い詰めていた。だが、その圧力の源泉が、父である公爵そのものにあることを、私は直感的に理解した。
私は、自室に戻り、ただ窓の外の庭園を眺めた。陽光が木々の葉を揺らし、その動きは穏やかで、何の意図もない。その無垢な光景が、今の私の心境とあまりにも対照的だった。私は、自分が今、何を求めているのか、そしてその求めてきたものが、どれほど脆いものなのかを悟った。
数日後、私は決意した。もう、このままでは、この家の中でただの駒として、誰かの都合の良いように動く存在で終わってしまう。私は、自らの探求を、公爵の権力構造そのものに突きつけることを決めた。
私は、公爵の執務室へと向かった。重々しい扉を開けると、書斎の中央で、父が静かに書類を整理していた。彼の背中は、いつものように重く、威厳に満ちていた。私は一歩踏み出し、彼の前に立った。
「父上」
私の声は、予想以上に震えていた。社交界で鍛え上げた、冷静で有無を言わせない声ではない。それは、獣医としての診察の時のような、慎重で、しかし断固とした響きを持っていた。
公爵は顔を上げなかった。彼はペンを置き、ゆっくりと私を見た。その眼差しには、怒りも、驚きもなかった。ただ、深い諦念のようなものが宿っているように見えた。
「エリアーナ。また、何を企んでいる」
彼の声は低く、感情の起伏がほとんどなかった。まるで、私が何か馬鹿げたことを言っているかのように。
私は、深呼吸をした。前世の記憶が、この瞬間を予見していた。この沈黙が、彼が隠している真実の重さを物語っている。私は、社交界で身につけた、礼儀正しい令嬢の仮面を剥ぎ取り、ただの探求者として、彼の前に立った。
「母の死について、お伺いしたいのです」
私の言葉は、あまりにも直接的だった。それは、公爵家が長年隠してきた、最も汚れた秘密に触れる行為だった。書斎の中の空気が、一瞬にして凍りついた。公爵の表情が微かに硬直する。彼は、まるで何かに打ちのめされたかのように、一瞬、視線を逸らした。
沈黙が、再び訪れる。今度は、先ほどよりも長く、重く。私は、その沈黙の中で、自分の言葉がどれほどの重みを持っているのかを痛感した。私の「正しさ」が、この権力構造の中で、どれほど無力なものなのかを。
やがて、公爵はゆっくりと口を開いた。彼の声は、先ほどよりもさらに冷たく、乾いていた。それは、私に対する怒りではなく、ある種の疲弊を滲ませていた。
「……お前は、母親と同じ顔をして、同じことを聞く」
その言葉は、私への非難ではなかった。それは、ある種の諦めであり、同時に、ある種の共感でもあった。彼は、私が母と同じように、この家の秘密を追い求める者であることを、静かに認めていた。
「私は、ただ、真実を知りたいだけです」
私は、その言葉を飲み込むことなく、続けた。私の心臓は激しく鼓動していたが、外見上は平静を装っていた。
公爵は、しばらく私を見つめていた。その視線は、私を射抜くようでありながら、同時に、私を拒絶しているようでもあった。彼は、私に答えを出すことを拒否している。それは、彼がその秘密を抱え続けることへの、一種の防衛機制なのだろう。
「……お前は、その真実を知る資格があるのか」
彼の問いは、私への試練だった。私は、ここで諦めるべきか、それとも、この重圧に耐え、さらに深く掘り下げるべきか。
私は、彼の視線を受け止めながら、静かに答えた。
「資格など、問いません。私は、この家が隠している真実を、知る義務があると思っています」
私の言葉は、彼の防衛線をわずかに揺さぶった。彼は、私のその強い意志に、一瞬、動揺したように見えた。それは、彼が長年、この秘密を守り続けてきたことへの、疲労の色だったのかもしれない。
公爵は、深く息を吐いた。彼は再び書類に目を落とし、その作業を再開する。その動作は、先ほどよりもわずかに緩やかになっていた。
「……わかった。だが、お前がその道を選んだ代償は、自分で払え」
彼の言葉は、許しではなかった。しかし、それは同時に、私に、この戦いの本当の代償を自覚させるための、冷徹な宣告でもあった。私は、彼が私に与えたのは、真実を知る権利ではなく、その真実を背負う覚悟だったのだと理解した。
私は、その場を後にした。書斎を出る時、私はもう、ただの令嬢ではなかった。私は、この家の闇を照らす、冷たい光を放つ存在になっていた。父の沈黙は、私に、この世界がどれほど欺瞞に満ちているかを教えてくれた。そして、私はその欺瞞を、私の手で解き明かしていくのだ。その決意を胸に、私は再び、社交界の冷たい空気の中へと戻っていった。




