30.興奮剤
夜が明ける前から、私は書斎にこもっていた。
手がかりは、クラリスが持ってきた二つの断片だけだ。「闘技場の連中が使うもの」。そして「少なければ効かず、多すぎればその場で死ぬ」。
それだけあれば十分だった。
私は、公爵領の薬草目録と、前世の記憶を突き合わせていった。獣を興奮させる薬は、この世界にもいくつかある。だが条件は厳しい。第一に、獣に効く量と致死量が近いこと。第二に、闘技という違法すれすれの世界で流通していること。第三に、投与から発現までがある程度速いこと——狩りの最中に暴れさせるなら、朝に打って昼に効くのでは間に合わない。
三つの条件で、候補は三種類にまで落ちた。そして、そのうち二つは、この地方では手に入らない南方の産物だった。
残ったのは、一つ。
セルヴァの実。硬い殻を持つ赤い実で、砕いて水に溶かすと、強い神経の興奮を起こす。少量なら闘犬や闘牛を狂わせて客を沸かせる。量を誤れば、心臓が跳ね上がりすぎて、そのまま止まる。
私は目録を閉じた。
分かってしまえば、あとは容易い——ということには、まったくならなかった。
薬の名が分かったところで、私はそれを差し押さえることができない。どこに保管されているのか知らないし、探し回れば計画を察知したと悟られる。そもそも私には、この家の中で誰かの部屋を検める権限がない。私は疑われている側の人間だ。
告発する道も、同じところで詰まる。証拠がないまま「継母が獣に薬を打つつもりです」と訴えれば、どうなるか。私はもう答えを知っている。冷酷で身勝手な令嬢が、今度は継母を陥れようとして虚言を吐いた。そう記録されて終わりだ。私の言葉には、もう重さがない。それはこの数ヶ月で、私自身が思い知らされたことだった。
窓の外が、白み始めていた。
狩猟祭は、明日だ。
私は、一つだけ確かなことを考えていた。薬は、獣の体に入る。入ったものは、そこに残る。
人間の証言は、いくらでも書き換えられる。使用人たちは判で押したように同じ言葉を繰り返し、記録は処分され、当事者は口を閉ざす。この家で、私はそれをさんざん見てきた。
だが、獣の体は違う。瞳孔がどれだけ開いているか。汗のかき方。痙攣が波打つように来るのか、細かく震えるのか。呼吸の速さと、吐く息の匂い。それらは、打たれた薬の種類と量を、正確にそのまま映す。書き換えることも、口裏を合わせることもできない。
証拠は、あの獣の上にしかない。
そして、それを読み取れる人間は、この国にたぶん、私しかいない。
私は立ち上がり、厩舎の隣の作業場へ向かった。
やるべきことは決まっていた。鎮静の薬を用意する。セルヴァの実の興奮に対して、解毒剤は存在しない。打たれた分が代謝されるのを待つしかない。私にできるのは、その間、心臓が保つように鎮静をかけることだけだ。
配合は慎重を要した。鎮静が浅ければ獣は暴れ続け、深すぎれば興奮剤で酷使された心臓が、そのまま止まる。私は、獣の体重を大型の魔獣として見積もり、上限と下限を計算し、その狭い幅に収まる濃度を作った。三つの小瓶に分けて詰める。一度で足りなければ、二度目、三度目を打てるように。
太い針も用意した。分厚い獣の皮を通すには、馬用のものでは心もとない。
作業をしながら、私は自分がしていることの意味を、冷静に確認していた。
暴れている獣に近づいて、首の血管を探り、そこへ針を刺す。獣は当然、抵抗する。私はドレスを着ている。周囲には逃げ惑う人間がいる。前世でも、こんな条件で処置をしたことは一度もない。大学の教官がこの計画を聞けば、正気を疑うだろう。
助かる見込みは、どのくらいだろうか。
獣の助かる見込みではない。私の。
私は、その計算を途中でやめた。そこを計算し始めると、手が止まるからだ。
小瓶を布に包んだ。三本。それと、太い針を一本。それが、私が明日あの場所に持っていける全てだった。
作業場を出ると、東の空が完全に明けていた。厩舎の方から、馬たちが目を覚ます音が聞こえてくる。飼葉を待つ、いつもの朝の音だ。
丸一日、私は起きていたことになる。
ステラの馬房を覗いた。彼女は静かに立っていた。私に気づいて、耳をこちらに向ける。
私は、その首に手を当てて脈を数えた。速さは普段通り。乱れは、10拍に1度。
「明日、行ってくるわ」
私は、そう言った。誰にも言えないことを、この馬にだけ言った。
包んだ布を胸に抱いたまま、私は屋敷へ戻った。あと一日ある。眠っておかなければならない。
——結局、その夜、私は眠れなかった。ユリウスが訪ねてきたからだ。




