24.流行り病でした
私は、厩舎の隅で、古い治療記録の数ページを広げていた。バルトスが渡してくれたその記録は、私にとって単なる資料ではなかった。それは、私自身の存在の根源を探るための、冷たい鏡だった。馬たちの死の記録、薬草の出がらしの混入、そして、時系列の緻密な一致。全てが、一つの冷酷な連鎖を形成していた。
馬たちが死んだのは、母が薬草茶を飲んでいた時期と完全に重なる。そして、厩舎の古い習慣――薬草の出がらしを飼葉に混ぜるという、無意識の行為。馬たちは、母が使った毒の副産物を摂取し、その結果、心臓の不整脈を経て、やがて命を落としたのだ。
私は、その事実を突き止めた。馬の死は、母が扱った毒の副産物だった。そして、その記録の筆跡は、母オフィーリア自身のものだった。私の前世の知識が、この世界の冷たい現実を解き明かしていく。母は、自らの手で、その毒の危険性を理解し、治療に当たろうとしていたのだ。
だが、その確信は、次の瞬間、冷たい現実によって打ち砕かれた。
「では、誰が」
その問いは、私自身の思考を停止させた。私は、この仮説を立てた。母が自らの手で毒を扱った。その毒の副産物が馬たちを殺した。そして、その毒の隠蔽に関わったのが、公爵家である。そして、その中心にいるのが、メルディナだ。
私は、その仮説を検証するために、過去の記録をもう一度見つめた。メルディナが、5年前のあの事件に関与したのではないか。彼女が、母の死を隠蔽するために、この馬たちの死を「流行り病」として処理したのではないか。
しかし、調べを進めるうちに、動かしがたい事実に突き当たった。メルディナは、5年前の事件の当事者ではなかった。彼女はまだ公爵家に身を置く以前の、遠方の実家で生活していた。公爵家との接点は一切なく、動機も機会もない。彼女が、母の死の真相を知り、それを隠蔽するために動いたという根拠は、どこにも見当たらない。
私の仮説は、根本から崩れる。
私は、自分が抱いていた「母は殺された」という確信が、単なる憶測に基づいていたことを悟った。それは、私自身の感情、そして前世の知識が作り出した、最も都合の良い物語だったのかもしれない。
私は、この厩舎の冷たい空気の中で、ただ一人、その矛盾に打ちひしがれていた。誰が、この家を、この真実を隠しているのか。その答えは、私には見えない。
私は、その問いを、誰にも聞かずに、ただ繰り返すことしかできなかった。
数日後、私は公爵家の使用人たちに、静かに聞き取りを始めた。目的は、母の死に関する記憶、あるいは、あの時の出来事に関する記憶の断片を得ることだった。社交界の噂や、公爵家の内部の動きは、私にはあまりにも複雑で、感情的なノイズで満ちていた。しかし、動物の記録のように、記憶もまた、論理的に整理されなければならない。
最初に話を聞いたのは、長年公爵家に仕える老侍女だった。彼女は顔を青ざめさせ、視線を床に落としたまま、震える声で口を開いた。
「あれは……流行り病でございました」
その言葉は、まるで古い石碑に刻まれたように、一言一句、感情を排していた。彼女の瞳には、恐怖と諦めが混ざり合っていた。彼女は、私に何かを告げようとしているのか、それとも、ただの義務としてその言葉を繰り返しているだけなのか。
私は、その言葉の裏に隠された意味を探ろうとした。流行り病。それは、公爵家が、あの悲劇をどのように処理したのか。病名という言葉は、事件の深刻さを矮小化し、隠蔽の容易さを物語っている。
次に、他の使用人たちにも聞き取りを行った。彼らは皆、同じように俯き、同じ言葉を繰り返した。
「流行り病でございました」
その声は、一様に抑揚がなく、まるで機械のように響いた。彼らは、何かを隠していることを知っている。しかし、その隠蔽の仕方が、あまりにも巧妙で、あまりにも組織的だった。それは、一人の人間が、個人的な感情や罪悪感だけで隠せる規模のものではなかった。それは、家全体が、ある種の「事実」を共有し、それを維持するために、その言葉を口にしているのだ。
私は、その沈黙と、繰り返される言葉の響きに、深い絶望を感じた。私が見つけようとしているのは、個人の動機ではない。それは、この家という構造そのものが、過去の過ちを塗り固め、未来の清算を拒んでいるという、冷徹なシステムだった。
私は、自分の探求が、単なる個人的な復讐劇ではないことを理解した。これは、権力と名誉、そして過去の醜聞が織りなす、巨大な構造の解明作業なのだ。
私は、その重圧に耐えながら、ただ静かに、その事実を受け入れるしかなかった。この家は、母の死について何かを隠している。そして、その隠蔽の構造は、私一人では決して解き明かせない。それは、私自身の獣医としての論理だけでは到達できない、もっと深い闇の中に存在しているのだ。




