22.独りの厩舎
私は、再び厩舎の冷たい空気の中に身を置いた。社交界の華やかな喧騒とは隔絶された、この場所だけが、私にとって唯一、前世の記憶と、この世界の真実が交差する場所だった。ユリウスとの関係は、あの応接間の扉が閉まった日から、凍てついたままだった。彼が最後に言った言葉——君の正しさは、時々、周りを傷つける——は、今も私の中で反響し続けている。私は、彼に私の真意を理解させる術を持たなかった。
だから、私は自ら、この厩舎に戻った。
夜の帳が降りる頃、私は静かに厩舎の扉を開ける。革と藁の匂い、湿った土の匂い。それは、私が前世で嗅いだ、獣たちの生活の匂いそのものだった。ここでは、貴族令嬢としての仮面も、冷酷な獣医としての仮面も剥がされ、ただの観察者として、動物たちの呼吸と体調だけが現実として存在した。
バルトスは、いつものように静かにそこにいた。彼は私の存在を理解している。私がこの場所に戻ることを、咎めることも、歓迎することもなかった。ただ、その存在を静かに受け入れている。彼は、公爵家の古い血筋を背負い、この厩舎の長として、何世代にもわたってこの場所を守ってきた。彼の沈黙は、時に壁のように私を閉じ込めるが、同時に、この場所の歴史を静かに語ってくれる唯一の存在でもあった。
「お疲れ様です、バルトス」
私は声を潜めた。私の声は、社交界で使うような、優雅な響きではなく、ただの、一人の人間としての、落ち着いたトーンだった。
「お嬢様。お変わりありませんか」
バルトスは、私の顔を一瞥し、すぐに視線を地面に落とした。彼は私に、公爵家の人間としての振る舞いを求めない。ただ、私がここにいることを許している。その無言の受容が、私にとっては何よりも大きな安堵だった。
私は、ステラの厩舎へと向かう。彼女は、まだ回復途上にある。心臓の不整脈は、完全に消えたわけではない。だが、以前のような激しい痙攣は見られない。それは、私が夜な夜な調べ、解毒薬を調合し、細心の注意を払って管理した結果だ。私の手による介入が、彼女の命を繋いでいる。
ステラは、私の存在を敏感に察知しているようだった。私が近づくと、彼女の瞳がわずかに開く。それは、単なる動物の反応ではない。何かを理解しようとする、生命の微かな揺らぎだった。私はそっと、彼女の側を通り過ぎる。触れることはしない。ただ、その存在を認め、静かに見守る。
その時、静寂を破るように、小さな足音が聞こえた。
「エリアーナ様」
振り返ると、そこに立っていたのは異母妹のクラリスだった。彼女は、いつもより少しだけ緊張した面持ちで、私の前に立っている。彼女の瞳は、不安と、隠しきれない好奇心で揺れていた。
「クラリス。どうしたの」
私は優しく尋ねた。彼女は、何かを伝えようと口を開くが、言葉にならない。彼女の視線は、ステラではなく、私自身に向けられている。
「お姉様……」
クラリスは、震える声で続けた。「お姉様は、どうして怖くないのですか」
その問いは、あまりにも直接的で、私を射抜くような鋭さを持っていた。彼女の問いの裏には、母オフィーリアの影、そして、私自身が抱えるこの秘密への恐れが透けて見えていた。
私は一瞬、言葉を失った。この問いは、私が最も避けたい、最も触れられたくない領域への侵入だった。社交界の冷たい視線よりも、今、目の前にいるこの小さな妹の、純粋な問いかけの方が、私を深く揺さぶった。
私はゆっくりと、微笑んだ。それは、社交界で使うような、作り物の優雅な笑みではない。前世の記憶と、この世界の現実が混ざり合った、少しだけ疲れた、しかし確かな決意を秘めた笑みだった。
「怖いわ」
私は静かに答えた。その声には、迷いはなかった。
「でも、目を逸らす方が、もっと怖い」
私は続けた。私の言葉は、彼女の不安を鎮めるものではなく、むしろ、その不安を肯定するものだった。私は、この秘密を抱えながらも、それを隠し続けることの恐ろしさを知っている。だからこそ、その恐れを直視し、受け入れることこそが、私に残された唯一の道だと悟った。
クラリスの表情が、わずかに和らいだ。彼女は、私の言葉を深く受け止めたようだった。それは、姉妹としての、静かな共感だった。私たちは、お互いの秘密を共有し、その重みを分かち合う。それは、公爵家という名の重い鎖の中で、私たちが唯一繋がれる、小さな光の瞬間だった。
厩舎の静寂は、再び戻ってきた。しかし、その静寂は以前とは違っていた。それは、秘密を共有した二人の間に生まれる、確かな信頼の響きを含んでいた。私は、この場所で、ただの令嬢ではなく、一つの真実を背負う者として、再び立ち直るための力を得たのだった。




