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20.母の筆跡

古い治療記録を読み解く。それは、革の匂いと、微かな薬草の香りが混ざり合った、重い記憶の塊だった。バルトスが渡してくれたその束は、公爵家の古い蔵の奥深くから引きずり出されたものだった。私はそれを、自室の書斎のような一角で広げた。格式張った社交界のドレスとは対照的に、この古びた紙とインクの匂いは、私の中に眠っていた前世の知識を呼び覚ます。


記録は、馬たちの病状と治療経過を記していた。日付は5年前、母オフィーリアが急死した年。そこには、複数の馬の記録が並んでいた。動悸、不整脈、そして急死。その症状の経過は、今、ステラが抱える不整脈と驚くほど一致していた。まるで、時空を超えて同じ病の軌跡を辿っているかのようだ。


私は細心の注意を払いながら、記録を読み進めた。馬たちの体調不良の記録は、単なる病気の経過報告に留まらない。そこには、薬の投与量、使用された薬草の種類、そしてその効果についての詳細な記述があった。前世で学んだ病理学の知識が、この世界の記録と結びつく。グラナの根。あの、微量の毒草が、馬たちの心臓にどのような影響を与えたのか。


私は、記録の筆跡に目を向けた。馬たちの記録は、厩務員であるバルトスが走り書きで補足している部分もあった。しかし、その走り書きの中に、他の誰かの、明らかに几帳面で、教育を受けた者のような、整った筆致が混じっていたのだ。それは、単なる作業のメモではなく、誰かが意図的に記録を補強しているような、緻密な筆跡だった。


私はその筆跡を、何度も何度も見つめた。誰が、この記録を管理していたのか。そして、なぜ、この記録が公爵家の蔵に保管され、私に見せることになったのか。


「バルトス」


私は静かに呼びかけた。バルトスは、いつものように無言で、私の傍らに控えていた。彼は私の視線を感じ取り、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、深い影を宿している。


「はい、エリアーナ様」


彼の声は、いつものように抑揚がない。しかし、その声の奥には、何かを隠しているような、微かな震えが感じられた。


「この記録の筆跡について、何かご存知ではないのですか」


私は、直接的な問いを避けた。しかし、私の探るような視線は、バルトスの警戒心を解くには至らなかった。彼は俯いたまま、言葉を紡げない。その沈黙が、私にさらなる探求を促す。


「……奥方様の字です」


バルトスは、ようやく絞り出すようにその言葉を口にした。その言葉は、あまりにも簡潔で、しかし、私の心臓を強く打った。奥方様。それは、亡き母オフィーリアのことだ。


私は息を呑んだ。母もまた、動物を診ていた。彼女が、この記録を自ら残していたのだ。前世で、私は雨宮澪の知識を継いだ。しかし、この世界では、その知識を継いだのは、母の記憶と、この古い記録だけだった。


母もまた、私と同じように、動物の命を救おうとしていたのかもしれない。あるいは、彼女自身が、この家が隠蔽しようとしている真実の一部を、記録に残そうとしたのかもしれない。


私の資質は、どこから来たのだろうか。それは、単なる偶然ではない。母の残した痕跡、そして、この記録に刻まれた、誰かの手による執筆。私は、自分の存在が、この過去と深く結びついていることを初めて自覚した。


私は、ただの令嬢ではない。私は、母の残した知識と、この冷たい記録を継ぐ者なのだ。その重みが、肩にのしかかる。私は、この真実を、誰かに伝えるべきなのか。それとも、この重荷を一人で背負い続けるべきなのか。


窓の外は、静かに夜の帳に包まれていた。馬たちの死、母の死、そして私自身の存在。全てが、一つの複雑なパズルとして、私の前に広がっていた。私は、そのパズルのピースを一つ、掴んだ。だが、全体像が見えてくるのは、まだ先のことだ。

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