19.君の正しさは
ユリウスが公爵家を訪れたのは、ロヴェル伯爵の一件から三日後の午後だった。
応接間に通された彼は、座らなかった。窓際に立ち、庭を見たまま、しばらく口を開かなかった。近衛の礼装のままだということに、私は気づいた。任務の途中で来たのだ。あるいは、任務としてここに来たのだ。
「宮廷から、話が来た」
前置きもなく、彼はそう言った。
「ロヴェル伯爵が、名誉を毀損されたと訴えている。公爵家の令嬢に、大勢の前で馬を虐待していると断じられた、と」
「事実です」
「エリアーナ」
「あの馬たちは、蹄の状態が限界でした。裂蹄が化膿しているのに調練を続けていた。飼葉も足りていません。肋が浮いていました。あれを虐待と呼ばないなら、何と呼ぶのですか」
ユリウスは、ようやく振り返った。その顔に、怒りはなかった。もっと疲れた表情だった。
「呼び方の話をしているんじゃない」
「では、何の話でしょう」
「収め方の話だ」
彼は、一歩こちらへ来た。
「宮廷は、この件を穏便に処理したがっている。伯爵は面子を潰された。公爵家は後ろ盾を一人失いかけている。どちらも損だ。だから——」
彼は、そこで一度言葉を切った。言いにくいことを言おうとしている人間の間だった。
「君に、こう言ってもらいたいそうだ。あの日の診断は、若輩の見立て違いであったかもしれない、と」
私は、彼の顔を見た。
「診断は、間違っていません」
「分かっている」
「では、なぜ」
「だから、収め方の話だと言っている!」
彼の声が、応接間の壁に跳ね返った。
かつて厩舎で、彼が一度だけ声を荒げたことがある。あの時、彼はすぐに自分で口を閉じた。驚いたような顔をして、言い過ぎたと悟って。
今日は、閉じなかった。
「一言でいいんだ。『私の見立てが足りなかったかもしれません』。それだけ言えば、伯爵は矛を収める。公爵家は後ろ盾を失わずに済む。君の父上も、これ以上君を庇う理由を探さずに済む。誰も損をしない!」
「馬が損をします」
彼が、息を呑んだ。
「私が見立て違いだったと言えば、あの馬たちの蹄は治療されません。飼葉も増えません。伯爵は、自分のやり方が正しかったと確認して、同じことを続けます。あの中の二頭は、あと半年もちません」
「……君は」
「私は嘘をつきません。助からないときは、助からないと言います。それを一度でも曲げれば、私が治せると言ったときにも、誰も信じなくなります」
「君は!」
彼は、拳を握った。振り上げはしなかった。ただ、その手が震えていた。
「君は、いつも正しい。いつも、恐ろしいほど正しい。だが君の正しさは——」
彼は、そこで初めて、私の目を真っ直ぐに見た。
「君の正しさは、時々、周りを傷つける」
言葉が、部屋に落ちた。
「ロヴェル伯爵のことも」彼は続けた。声は、もう荒げていなかった。それがかえって重かった。「……ステラのことも」
私は、何も言い返せなかった。
言い返す材料なら、いくらでもあった。伯爵が傷ついたのは伯爵自身の行いのせいだと。ステラが走れないのは毒のせいで、私のせいではないと。どれも事実だ。
だが、彼が言っているのは、そういうことではなかった。
彼は、私が「傷つけた」と言っているのではない。私が「傷つけないやり方を、一度も探さなかった」と言っている。そして、それは事実だった。
私は、ロヴェル伯爵を別室に呼ぶこともできた。人払いをして伝えることもできた。ステラのことも、あの日、もっと違う順番で話すことができたはずだ。数字から入らずに。彼が座ってから。
私はそうしなかった。事実は事実であり、伝え方など事実の付属品にすぎないと思っていたからだ。
前世でも、同じだった。飼い主に告げるとき、私はいつも最短の道を選んだ。それが誠実だと信じていた。あの人たちの顔を、私はもう一つも思い出せない。
「……何か言ってくれ」
ユリウスが言った。
私は、口を開いた。何か言わなければならないと分かっていた。「すみません」でも「考えます」でも、この場を繋ぐ言葉ならいくらでもある。
だが、私の口から出たのは、これだった。
「あの馬たちの蹄を、誰かが治療してくださるのなら、私は何も言いません」
ユリウスの顔から、表情が消えた。
長い沈黙のあと、彼は静かに言った。
「……そうか」
彼は、それ以上何も言わずに応接間を出て行った。扉が閉まる音は、意外なほど小さかった。
私は、その場に立ったまま動けなかった。
私は、間違ったことを一つも言っていない。それは確かだ。
そして今、この部屋には誰もいない。
それも、確かだった。




