16.走らせれば、死にます
ステラの回復は、私にとって一つの区切りだった。数週間にわたる夜間の治療と、解毒薬の継続的な管理。私は、前世で学んだ知識を駆使し、ステラの心臓に刻まれた不整脈の原因を特定し、その負担を最小限に抑えるための処置を施した。ユリウスは、その過程に付き添い、最初は監視のつもりで厩舎を訪れていたが、次第にその手際と、私が見せる動物への深い洞察に、次第に心を動かされていった。
ステラは、ようやく自力で立ち上がる力を取り戻した。その姿を見た時、ユリウスの顔には安堵と、それ以上の複雑な感情が浮かんでいた。彼は、私に向かって深く頭を下げた。その眼差しには、かつての誇りだけではなく、ある種の畏敬の念が混じっていた。
「エリアーナ。君の治療は、驚くほど的確だ」
彼の声は、以前のような騎士としての威厳ではなく、一人の人間としての、切実な響きを持っていた。私は、その言葉に一瞬息を呑んだ。彼の言葉は、私の行動が、単なる個人的な興味ではなく、確かな技術に基づいていることを認めている証拠だった。
ステラは、日に日に元気を取り戻していった。飼葉を残さず食べ、厩舎の中を落ち着いた足取りで歩き、人が近づけば首を伸ばして鼻先を寄せてくる。誰の目にも、彼女はもう病馬には見えなかった。
だから私は、確かめなければならなかった。
ある朝、私はバルトスに頼んで、ステラを馬場に出してもらった。速歩、それも短い距離を、ごく軽く。走らせたのではない。ただ、脚を使わせただけだ。
止めた直後、私は彼女の左胸に手を当て、鼓動を数えた。速い。当然だ。問題はここからだった。私は数を数えながら、時を計った。
健康な馬なら、この程度の運動のあと、脈は10分ほどで元の速さに戻る。20分経っても、ステラの脈は落ちなかった。30分経って、ようやく普段の速さに近づいた。そして、その戻っていく過程で、脈が跳ねた。数拍に一度ではない。10拍のうちに、2度。3度。休ませている間にもかかわらず、乱れの頻度は運動前より明らかに増えていた。
毒は抜けた。だが、毒が心臓の筋肉に残した傷は、抜けなかったのだ。負荷をかければ、そこが引きつるように乱れる。日常の歩みなら耐えられる。だが、鎧を着けた騎士を乗せ、隊列の中を全力で駆ける——軍馬の仕事は、この心臓には重すぎる。
私は、記録を閉じた。結論は、もう出ていた。
その日の午後、私はユリウスを厩舎に呼んだ。彼は、上機嫌でやってきた。当然だろう。彼の愛馬は、死の淵から戻ってきたのだ。
「ステラを、引退させるべきです」
前置きはしなかった。彼の顔から、笑みが消えた。
「……何を言っている」
「毒は抜けました。ですが、心臓の筋肉に傷が残っています。軽い速歩のあと、脈が元に戻るまで30分かかりました。健康な馬なら10分です。しかも戻る途中で、10拍に2度から3度、脈が飛びます」
私は、数字だけを並べた。それが最も正確だからだ。
「もう普通に歩いている」ユリウスの声が、硬くなった。「走れる。君も見ただろう、あの脚を」
「歩けます。並足も、短い速歩も。ですが、軍馬としては使えません」
「軍馬としては、だと」
「はい。全力で走らせれば、心臓が保ちません」
彼の顔に、はっきりと怒りが浮かんだ。それは、私に向けられたというよりも、私が告げた事実そのものに向けられていた。
「君は、ステラを殺す気か。あの馬は、生まれたときから走るために——」
「走らせれば、死にます」
言葉が、彼の言葉を断ち切った。
厩舎が、静まり返った。ステラが、藁を踏む音だけが聞こえる。ユリウスは、私を見ていた。その目に浮かんでいるのは、憎しみではない。もっと悪いものだった。裏切られた者の目だ。
「……君は、いつもそうだ」彼は、絞り出すように言った。「助からないと言う。走れないと言う。君の口からは、そればかりだ」
「私は、嘘をつきません」
「嘘をつけとは言っていない!」
彼が声を荒げたのは、初めてだった。だが次の瞬間には、彼は自分の声の大きさに驚いたように、口を閉じた。
長い沈黙のあと、彼は静かに言った。
「……少し、考えさせてくれ」
それは、拒絶ではなかった。だが、承諾でもなかった。彼は私の顔を見ずに、ステラの首を一度だけ撫でて、厩舎を出て行った。
私は、その背中を見送った。追いかける言葉を、私は持っていなかった。持っていたとしても、それはまた同じ事実の繰り返しにしかならない。
ステラが、私の肩に鼻先を押しつけてきた。私は、その温かい首に手を当てた。鼓動は、静かに、規則的に、そして時折、小さく跳ねていた。
彼女は生きている。歩ける。飼葉を食べ、日を浴び、人に甘える。ただ、走れないだけだ。
それのどこが、そんなに耐えがたいことなのか——私には、どうしても分からなかった。そして、その分からなさこそが、私という人間の、最も深い欠落なのだということも、この時の私は、まだ知らなかった。




