15.令嬢の責務
社交界の重鎮たちが集う、王都の最も格式高いサロン。重厚なベルベットのカーテンが、薄暗い光を遮り、空気は張り詰めた緊張感に満ちていた。私は、公爵家の令嬢として、完璧な微笑みを貼り付けていた。それは、前世の記憶を持つ私にとって、最も使い慣れた仮面の一つだ。しかし、その仮面の下で、私の心臓は微かに速く打っている。
今日の議題は、公爵家の将来、すなわち私自身の役割についてだった。王立狩猟祭が近づくにつれ、私の振る舞い、そして将来の継承者としての適性について、周囲の視線は鋭さを増していた。
「エリアーナ嬢。あなたは、あまりにも動物の世話に傾倒しすぎているのではないかしら」
声の主は、公爵家の有力な貴族、レオンハルト伯爵夫人だった。彼女は優雅なドレスを纏い、その瞳には明確な軽蔑の色が宿っている。彼女の言葉は、社交界の暗黙の了解を代弁していた。動物の治療や世話は、馬丁や獣番といった身分の低い者たちの仕事であり、令嬢がそれに手を染めることは、家柄の品位を損なう行為だと見なされる。
「お嬢様は、公爵家の跡継ぎとして、社交の作法や領地経営といった、もっと重要な務めを担うべきですわ」
隣に座る、メルディナ嬢が静かに口を開いた。彼女の言葉は、まるで蜂蜜のように甘く響くが、その裏には冷たい計算が隠されている。彼女は、私を憎んでいるわけではない。むしろ、私を「不適格」と見なしているのだ。
「エリアーナは、その才能を、馬や犬といった、あまりにも身分の低い存在に費やしている。それは、公爵家の名誉にとって、あまりにも無益な時間の使い方ですわ」
レオンハルト伯爵夫人の言葉は、鋭い指摘だった。彼女は、私の行動を「令嬢らしからぬ」ものとして断罪している。それは、私が前世で培った知識や、動物に対する純粋な関心とは無関係な、社会的な規範に基づいた批判だった。
私は、反論の言葉を探した。前世の知識が、この場の空気を読む術には役立たない。私は、ただ、事実を述べたい。しかし、その事実を口にすれば、それは即座に「感情的で、身分をわきまえない令嬢」というレッテルにすり替わってしまうだろう。
「私は、ただ、目の前の命を看取っているだけです」
私は努めて平静を装い、静かに答えた。それは、私がこれまで培ってきた、獣医としての、あるいは前世の記憶が呼び起こす、ある種の職業倫理に基づいた返答だった。しかし、その言葉は、周囲の貴族たちには響かなかった。彼らにとって、それは「感情論」であり、「身分をわきまえない傲慢さ」に聞こえたに違いない。
その時、メルディナが静かに、しかし有無を言わせぬ口調で、私の言葉を補った。
「エリアーナは、あんなにも真摯に、動物たちの苦しみに向き合っている。わたくしは、あの子を憎んでいるのではありません。ただ、この家を誰が継ぐのかを心配しているだけです」
メルディナの言葉は、まるで正論のように響いた。彼女は、私を責めるのではなく、状況そのものを分析している。彼女の指摘は、一見すると私を擁護しているように聞こえる。しかし、その根底には、公爵家の未来に対する、冷徹な現実主義が隠されていた。
「エリアーナのその行動は、確かに、この家にとっての『責務』を果たしていない。跡継ぎとして、もっと政治的な視点を持つべきです」
メルディナの言葉は、私を責めるのではなく、私自身の行動の「不備」を指摘していた。それは、私自身の行動が、この家にとっての「正しさ」とは結びついていないことを示している。
私は、反論できなかった。私の行動が、この社会の求める「正しさ」とは異なるのだ。私は、動物の命を救うという、私自身の信じる道を選んでいる。しかし、その道は、この貴族社会のルールの中では、常に「誤り」として扱われる。
サロンの空気は、私の言葉によってわずかに動いた。それは、私の行動が、単なる個人的な興味ではなく、ある種の「責務」に基づいていることを示唆したからかもしれない。しかし、その変化は、すぐに冷たい嘲笑と、再びの無関心な視線に塗りつぶされていった。
私は、自分がこの世界で、どれほど孤立しているのかを痛感した。私の誠実さは、この世界では、ただの「令嬢らしからぬ」という、無意味なレッテルに過ぎなかった。
この場を去る際、私は心の中で決意を新たにした。私は、この社会のルールに合わせることはしない。私の道は、動物の命を救うことだ。たとえそれが、この家にとっての「不適格」な行為だとしても。
メルディナは、静かに微笑みながら、私に視線を送った。その視線には、諦めと、ある種の理解が混ざっていた。彼女は、私の行動を否定するのではなく、その背景にある「家を守りたい」という切実な願いを、静かに受け入れているようだった。
私は、その視線を受け止めながら、重い足取りでサロンを後にした。外の冷たい空気が、私の心に冷たい現実を突きつける。私は、この世界で、誰かの期待に応えるために生きるのではなく、ただ、私の信じる正しさのために生きることを選ぶ。その選択は、これからも多くの摩擦を生むだろう。だが、私はもう、誰かのためだけに、自分の真実を隠すつもりはない。




