14.クラリスの手
部屋の隅、古い書棚の影に、小さな影があった。それは、震える小さな鳥だった。羽は泥で汚れており、その瞳は怯えと絶望に満ちていた。クラリスだ。彼女は、いつものように控えめな表情を崩さず、その鳥を抱きしめていた。その姿は、まるで壊れやすいガラス細工のようだった。
「クラリス」
私の声は、意図せず低く響いた。彼女はびくりと身体を震わせ、顔を上げた。その瞳には、驚きと、すぐに隠そうとする強い恐怖が浮かんでいた。
「お、お姉様……」
彼女の声は掠れていた。その声の震えは、私自身の胸の奥底にある、抑圧された感情と共鳴していた。私は一歩、彼女の傍へと近づいた。社交界で「冷酷な令嬢」と蔑まれる私だが、目の前の命を前にして、その感情は純粋なものになる。
「何を隠しているの?」
私の問いは、鋭い刃のように彼女の心に突き刺さった。クラリスは俯き、小さく息を呑んだ。その仕草は、彼女が抱えている秘密の重さを物語っていた。
「な、なんでもないわ。ただ、少し、お世話を……」
彼女の言葉は曖昧だった。しかし、その震えは嘘をついていることを私にはわかっていた。私は、彼女の顔をじっと見つめた。その瞳の奥には、動物に対する深い愛情と、それを許されないという絶望が渦巻いていた。
「嘘をつかないで」
私は静かに言った。それは、獣医としての、あるいは前世の記憶が呼び起こす、ある種の倫理観に基づいた要求だった。私は、彼女の隠しているものが、何であれ、その存在を否定するつもりはない。ただ、その状況を正確に把握したいだけだ。
クラリスは、私の視線に耐えられず、さらに身を縮めた。彼女の頬が赤く染まり、その小さな身体は、まるで嵐の前の静けさのように張り詰めていた。
「お姉様……それは、誰にも見せてはいけないことなの。母に……」
その言葉の端々に、彼女の恐怖が滲んでいた。母、メルディナ。彼女が最も恐れるのは、自分の秘密が露見することだ。動物を愛する心は、この家では「令嬢らしからぬ」ものとして厳しく禁じられている。それは、私自身が抱える抑圧と、クラリスが抱える抑圧が、同じ構造で繰り返されていることを示していた。オフィーリアからエリアーナへ、そしてクラリスへと、同じ壁が築かれている。
私は何も言わなかった。ただ、彼女の手からそっと小鳥を受け取った。その手のひらは、驚くほど冷たかった。
小鳥は、雀だった。私は指で羽を広げ、左の翼を検めた。付け根から数えて二本目の骨が、途中で不自然に角度を変えている。折れている。だが、皮膚は破れていない。骨が外に出ていないなら、留めれば繋がる。
「クラリス。細い枝を二本、持ってきて。それと、あなたのハンカチを一枚」
「え……」
「早く。この子は、じっとしていられる時間が短いの」
彼女は、弾かれたように部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。庭で折ってきたらしい細い枝と、刺繍の入った上等なハンカチを持って。
私は、ハンカチを裂いた。彼女が息を呑む音がしたが、手は止めなかった。
「押さえていて。強く握らないで。この子の胸を潰さない程度に、でも動かないように」
クラリスの手の上で、私は作業を始めた。翼を自然な角度に戻す。骨の端がわずかに擦れる感触が、指先に伝わった。枝を添え木にして、翼の上下から挟み、裂いた布で留める。きつすぎれば血が通わない。緩すぎれば意味がない。私は布の端を引きながら、指一本が入る隙間を残して結んだ。
「これで、動かせなくなったわ。この子は嫌がるけれど、外してはだめよ」
「あの、痛くないの」
「痛いわ。でも、動かしている方がずっと痛いの」
私は、続けて話した。
「水は、この浅い皿に。深いと溺れるから。餌は、雑穀を潰して、水で少し柔らかくして。虫が獲れるなら虫の方がいいけれど、無理はしなくていい。日の当たる場所に置いて、夜は布を掛けて暗くすること。暗くしないと眠らないの」
クラリスは、必死に頷いていた。
「20日くらいで、骨は繋がるわ。そうしたら添え木を外す。外したあと、飛べるかどうかは分からない。飛べなかったら、その時に考えましょう」
「飛べないかもしれないの?」
「かもしれない」
私は、そこを曖昧にしなかった。
「治せると言えないことを、治せるとは言わない。私はそう決めているの。この子は、飛べるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。でも、今日、翼を留めなければ、確実に飛べないわ。だから留めたの」
クラリスは、小鳥を見つめていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、私の手を見ていた。鳥ではなく、私の手を。
「お姉様の手、迷わないのね」
私は、返す言葉を持たなかった。
「お姉様……」
彼女は、私の手を握り返した。その手の温もりは、微かではあったが、確かに存在していた。それは、私たちが同じように、この閉ざされた世界の中で、何かを必死に守ろうとしている証拠だった。
私は、彼女の秘密を詮索しなかった。ただ、その存在を認め、受け入れることで、彼女の心の重荷を少しでも軽くしたいと思った。それは、獣医が傷ついた動物を扱う時と同じ、静かで、しかし確かな共感の行為だった。
「誰にも言わなくていいのよ」
私はそう言いながら、彼女の肩をそっと抱いた。その抱擁は、優しく、しかし有無を言わせぬ強さを持っていた。それは、私自身の、この世界に対する静かな反抗でもあった。
クラリスは、しばらくその抱擁を受け入れていた。そして、ゆっくりと、その小さな鳥を抱きしめ直した。その仕草は、以前よりも少しだけ、強くなっていた。
「ありがとう、お姉様」
その一言は、感謝というよりも、ある種の連帯の始まりのように響いた。私たちは、言葉を交わさずに、互いの孤独を認め合った。この秘密は、私たちが共有する、この閉ざされた空間の中で、一時的にだけ許された、小さな信頼の証となった。
私は、彼女の隣に立ち、静かにその光景を見つめた。この秘密は、私たちがこれから共に歩む道において、何かの糧となるかもしれない。それは、私たちがこの世界で、ただの「令嬢」として生きることを拒否する、静かな誓いのようなものだった。




