13.軍馬たちの悲鳴
騎士団の馬たちが、苦しんでいる。それは単なる疲労や病気ではない。過酷な訓練と、不十分な栄養管理が複合的に作用し、馬たちの生命力を削り取っている。ユリウスの部隊は、王都の近衛騎士団の誇りであるはずだが、その馬たちは今、悲鳴を上げている。
私は、公爵領の領地を離れ、王都の喧騒の中へと戻ることを躊躇った。しかし、ユリウスの顔が、その馬たちの苦しみに耐えかねている様子を見て、私は立ち止まることができなかった。騎士団長としての責任感と、獣医としての職務への衝動が、私を駆り立てた。
「ユリウス様、お見えください」
私は、ユリウスの執務室の扉を叩いた。彼は、疲労の色を隠そうともせず、硬い表情で私を迎えた。彼の瞳には、いつもの自信が薄れ、ただただ焦燥だけが宿っている。
「エリアーナ。君は、なぜここに?」
彼の声は低く、苛立ちを含んでいた。彼は、私が公爵家の人間であること、そして私が獣医の知識を持っていることを知っている。だが、その事実は、彼にとって都合の良いものではないようだった。
「馬たちが、苦しんでいるのです。原因は、訓練の過酷さと、栄養管理の甘さにあると見ています」
私は、感情を排し、事実だけを淡々と述べた。前世で学んだ病理の知識が、今、この現実を突きつけている。馬たちの体調不良は、単なる疲労ではない。特定の栄養素の欠乏と、過度な負荷が、心臓と呼吸器系に深刻な負担をかけている。
ユリウスは、私の言葉を遮るように言った。「エリアーナ、君は令嬢だ。馬の治療など、馬丁や獣番の仕事だ。君が口を出すべきではない」
その言葉は、いつものように、私を突き放すための社交辞令のように聞こえた。だが、私はその言葉の裏にある、彼の不安を読み取った。彼は、自分の管理能力の欠如を認められない。だからこそ、私という「異質な存在」を排除しようとしているのだ。
「私の口出しが、馬の命に関わることではないと仰るのですか?」
私は、彼の言葉を静かに受け流し、さらに踏み込んだ。私の声には、いつもの令嬢らしい丁寧さの中に、獣医としての確固たる自信が滲んでいた。
「調練の翌朝、後肢を痛がって動かない馬がいます。尿の色が濃いはずです。赤に近い、暗い色の」
ユリウスの目が、わずかに見開かれた。心当たりがあったのだ。
「先月から、三頭です。どうしてそれを」
「筋肉が壊れて、その成分が尿に出ているからです。前日に休ませた馬を、翌日いきなり全力で走らせると起きます。休みの日にも飼葉を減らさず与え続けていると、なお起きやすい」
私は、飼葉桶を指した。
「休養日も、調練日と同じ量を与えておいでですね」
「……馬には、たくさん食わせるのが良いことだと」
「動かさない日は減らしてください。そして休み明けは、いきなり隊列に入れず、半刻ほど並足から始めてください。それだけで、ほとんど起きなくなります」
私は、具体的なデータに基づいた見立てを提示した。それは、感情論ではなく、科学的な根拠に基づいたものであった。ユリウスは、私の言葉の鋭さに息を呑んだ。彼の顔から、一瞬にして血の気が引いたのが分かった。
「……君は、本当に、そのように見ているのか」
彼の問いは、疑念と、わずかな畏敬の念が入り混じっていた。彼は、私の言葉が単なる口先だけの社交辞令ではないことを理解し始めていた。
「はい。私は、見捨ててはいけないものを見捨てません。助かるべきものを見捨てません」
私は、前世の記憶と、この世界の真理を重ね合わせて、静かに宣言した。それは、私自身の職業倫理であり、同時に、彼に対する、ある種の挑戦でもあった。
ユリウスはしばらく沈黙した後、深く息を吐いた。彼は、私の言葉の重みを理解したのだ。彼の心の中の、管理能力への不安が、私の言葉によって、一気に現実のものとなった。
「……エリアーナ。君の言う通りだ。我々の管理体制に、甘さがあった。すぐに改善する」
彼の言葉は、形式的ではあったが、その響きには真摯さが含まれていた。彼は、私の指摘を、ただの令嬢の戯言としてではなく、真実として受け入れたのだ。
私は、彼の安堵の表情を見て、静かに頷いた。私は、彼に改善策を指示するつもりはない。ただ、事実を提示しただけだ。
「改善は、現場から始めるべきです。過酷な訓練を少し緩め、栄養バランスを見直してください。それだけです」
私は、彼の肩に手を置き、静かに促した。それは、単なる指導ではなく、ある種の共闘の始まりだった。ユリウスは、私の厳しい指摘を受け入れ、その場で、具体的な改善計画を立て始めた。
その日の午後、私は再び厩舎へと向かった。馬たちの様子を、改めて確認する。彼らの呼吸は、以前よりも安定していた。それは、私の言葉が、彼らの命を救うための第一歩となったことを示していた。
ユリウスは、私に感謝の言葉を述べた。それは、騎士としての義務感からくるものではなく、一人の人間としての、純粋な敬意だった。
「エリアーナ。君の言葉は、常に根拠がある。それは、私たちが忘れていたことだ」
彼の言葉は、私にとって大きなものだった。私は、自分の行動が、単なる個人的な興味ではなく、誰かの命に関わる責任であることを再認識した。
この一連の出来事は、私自身の立場をさらに複雑にした。私は、社交界の冷たい令嬢というレッテルを剥がすことはできなかった。だが、私の行動が、そのレッテルを覆すための、小さな亀裂を生み始めたことを感じていた。私は、ただの令嬢ではなく、ある種の専門性を持った存在として、この世界で生きることを選んだのだ。
私は、再び、静かに、しかし確かな決意をもって、私の獣医としての道を歩み続けることを決めた。それは、誰かの評価を気にするためではなく、ただ、目の前の命を正しく見極めるためだった。




