12.もう一匹の犬
ハウエル夫人の屋敷から使いが来ている、と聞いたのは、農村から戻った翌日のことだった。
私は、その報せを二度聞き返した。
ハウエル夫人。あの茶会で、私が「助かりません」と告げた老犬の飼い主。私の言葉に悲鳴を上げ、社交界に私の悪評を撒いた張本人。あの人が、公爵家に使いを寄越すはずがない。
案の定、使いの用件は私宛てではなかった。夫人が懇意にしている侍医への紹介を、公爵家に求めるものだった。飼い犬が三日前から食事を摂らず、水も飲まない。王都の医者を三人呼んだが、誰も原因が分からない。四人目を紹介してほしい——それが、使いの持ってきた話だった。
犬。もう一匹いたのか、と私は思った。あの日、夫人の腕の中で死にかけていたのは白銀の老犬だった。
「三日、水も」
私は、使いの者に尋ねた。
「はい。舌が乾いておるようで」
「腹は。膨れていませんか」
「……そのように聞いております」
「吐きますか」
「吐こうとして、何も出ないと」
私は、それ以上聞かなかった。聞く必要がなかった。
支度をして、屋敷を出た。
呼ばれてはいない。それは分かっている。私が行けば、あの人は怒るだろう。追い返されるかもしれない。それも分かっている。
だが、三日水を飲めていない犬に、四人目の医者を探す時間はない。
ハウエル邸の門で、私は名乗った。
取り次ぎの者が奥へ消え、戻ってきたときには、ハウエル夫人本人が玄関に立っていた。喪服のような濃い色のドレスを着ていた。あの老犬のためのものかもしれない、と私は思った。
夫人は、私を見た瞬間、顔色を変えた。
「お帰りください」
「犬を診せてください」
「お帰りくださいと申し上げました」
「三日、水を飲んでいないと伺いました。腹が張って、吐こうとして何も出ない。おそらく胃の捻転か、腸の閉塞です。もし閉塞なら、まだ間に合います。捻転なら、今日が限界です」
夫人の唇が、震えた。
「よくも」彼女は、絞り出すように言った。「よくも、そのような顔で来られましたね。あなたは、あの子に何と仰いました」
「助かりません、と申し上げました」
「——!」
「腹の中で臓器が破れていました。三日後に亡くなったはずです。私の見立ては、正しかった」
夫人の目が、大きく見開かれた。
私は、自分が何をしているのか分かっていた。この人が最も聞きたくない言葉を、玄関先で、正面から言っている。前世から一度も直せなかった、私の一番悪い癖だ。
だが、今日だけは、これが必要だった。
「私は、あの子を助けられませんでした。助けられないものを、助けられると申し上げることが、私にはできないからです」
私は、一歩前に出た。
「ですから、今日申し上げることも、信じていただけるはずです。中にいる子は、まだ助かるかもしれません。診せてください」
長い沈黙があった。
夫人は、私を睨んでいた。憎しみは、少しも薄れていなかった。それははっきりと分かった。
それでも、彼女は横に一歩、動いた。
「……奥です」
犬は、小さな茶色の雑種だった。老犬ではない。まだ若い。寝台の上で横向きに丸まって、浅い呼吸をしていた。
私は膝をつき、まず腹に手を当てた。
張っている。だが、板のように硬いわけではない。指を沈めると、犬が身をよじった。痛みはある。しかし、捻転特有の、触れただけで悲鳴を上げるほどの激痛ではない。
粘膜を見た。歯茎の色は白っぽい。指で押して、色が戻るまでを数える。二つ、三つ——遅い。脱水が進んでいる。
耳の後ろの皮膚をつまみ上げた。離しても、皮膚がすぐには戻らない。これも脱水の徴だ。
腹に耳を当てた。音がする。腸が動いている音だ。弱いが、確かにある。
私は、息を吐いた。
捻転ではない。捻転なら、腸の音は消える。閉塞だ。それも、完全ではない。何かが詰まりかけて、通り道を狭くしている。
「口を開けます」
私は犬の口を開け、舌の根元を覗き込んだ。そして、指を入れた。
舌の付け根に、細い糸が引っかかっていた。
「……糸です」
「え」
「舌の裏に糸が絡んで、その先が飲み込まれています。飲み込まれた糸が腸を手繰り寄せて、通り道を塞いでいます」
私は、その糸を無理に引かなかった。引けば腸が裂ける。これは絶対にやってはいけない処置だ。前世で、それをやって犬を殺した例をいくつも知っている。
「この子は、裁縫の糸を口にしませんでしたか。針のついたものを」
夫人が、はっと息を呑んだ。
「……四日前に、私の針箱をひっくり返しました。叱って、片付けさせましたが」
「針は、見つかりましたか」
「……いいえ」
私は、自分の手が冷たくなるのを感じた。針が体内にある可能性がある。だが、腸に穴が開いていれば、この犬はもっと悪い状態になっている。まだ穿孔していない。
「この子は、助かります」
私は、そう言った。
夫人の顔が、こわばった。
「今から糸を舌から切り離します。引っ張ってはいけません。飲まれた側が自然に下るのを待ちます。その間、水分を補います。飲めないので、皮膚の下から入れます。針を刺しますので、押さえていてください」
「……私が?」
「あなたが押さえてください。この子は、あなたの声を知っています」
夫人は、震える手で犬を抱えた。
私は、舌の根元の糸を、鋏で慎重に断ち切った。それから、背中の皮膚をつまみ上げ、そこへ塩を溶かした温い水を、少しずつ入れていった。皮膚の下が膨らむ。これが吸収されるのに、半日かかる。
三度に分けて入れ終える頃には、日が傾いていた。
犬は、まだ動かない。だが、呼吸の間隔が、来たときより明らかに開いていた。
「明日、また参ります。糞に糸と針が出るまで、毎日診ます。もし急に痛がって、腹が板のように硬くなったら、その時は使いを出してください。夜中でも構いません」
私は立ち上がり、汚れた手を布で拭った。
夫人は、寝台の脇に座ったまま、犬を見ていた。私の方は、見なかった。
「お礼は、申しません」
彼女は、そう言った。
「はい」
「あなたは、あの子を見殺しにと仰った方です。それを、忘れることはありません。生涯」
「はい」
私は、頷いた。それが正しいことだと思ったからだ。この人が私を許す必要はない。私の言葉は、この人の一番大事なものが死ぬ日に、その死を予告した。それは、事実として、この人の中に残り続けるべきだ。
「明日、また参ります」
私は、そう言って部屋を出た。
その一週間後、犬の糞から、絡んだ糸と、曲がった針が出た。犬は水を飲み、粥を食べ、やがて庭を走った。
ハウエル夫人は、最後まで私に礼を言わなかった。
だが、その月の終わり頃から、社交界の噂の流れ方が、ほんのわずかに変わった。
「ハウエル夫人のお宅の犬を、あの方が診たそうよ」
「まあ。あれほど憎んでおいでだったのに」
「呼ばれてもいないのに、いらしたのですって」
噂は、私に好意的なものではなかった。物好き、変わり者、令嬢らしからぬ——そういう言葉が並んだ。
それでも、そこには一つだけ、これまでになかったものが混じっていた。
**あの人の見立ては、当たる**。
その一言が、初めて、悪意なしに口にされ始めていた。




