11.疫病ではない
公爵領の農村は、王都の華やかな社交界とは隔絶された、湿った土と獣の匂いが支配する場所だった。私は、公爵家の令嬢という立場を一時的に脱ぎ捨て、身分を隠してこの辺境の地へと向かった。目的はただ一つ、公爵領の家畜が相次いで倒れているという、漠然とした疫病の疑いを調査することだった。
王都の社交界で「冷酷な令嬢」と囁かれる私にとって、この農村での活動は、一種の逃避であり、同時に、私の持つ専門知識を、社会の無関心な層に適用する試みでもあった。貴族の庇護を失った私は、ただの令嬢ではなく、問題解決のために動く存在でなければならなかった。
到着したその日の午後、私は領地の役人たちに身分を偽り、獣医としての知識を背景に、家畜の健康状態を問うことにした。彼らは私を訝しんだが、公爵領の家畜の健康は、領地の存続に関わる問題であり、私を拒絶することはできなかった。
数日後、事態は深刻化した。数頭の牛や羊が、急激な衰弱と痙攣を示し始めたのだ。領民たちは不安に顔を歪め、噂が広がり始めた。疫病だと囁かれる中、私は厩舎の隅で、病気の兆候を観察し続けた。
私は、単なる疫病ではないと直感した。それは、病原菌によるものではなく、飼料の保管状態に起因するカビ毒だ。湿気が多く、適切な換気がされていない古い納屋で、飼料が腐敗し、その毒素が家畜の体内に蓄積していたのだ。前世で学んだ病理の知識が、この状況を明確に示していた。
私は、領地の農夫たちを集め、飼料の保管方法について厳しく指導した。古い藁や干し草の管理、湿気の除去、そして適切な換気の重要性を、専門用語を交えながら、しかし分かりやすく説明した。彼らは最初は私の言葉を疑ったが、私が示す具体的な証拠――腐敗した飼料のサンプル、カビの発生源――を目の当たりにし、次第に納得していった。
「これは、病気というよりも、腐敗による中毒です。適切な管理をすれば、命を救うことができます」
私の言葉は、感情論ではなく、事実に基づいていた。貴族社会では、令嬢がこのような現場に立つことは許されない。しかし、家畜の命が危機に瀕している以上、私はその「正しさ」を貫くしかなかった。
数日間の指導の結果、家畜たちの容態は劇的に改善した。死に至る寸前だった個体も、適切な処置によって命を繋ぐことができた。疫病という大きな脅威は、単なる管理の不備によって防がれたのだ。
領民たちの間に、私に対する視線が変化した。それは、かつての社交界での冷たい評価とは異なり、畏敬と、ある種の感謝が混じったものだった。彼らは、私がただの令嬢ではなく、実際に命を救う力を持っていることを知ったのだ。
ある日の夕暮れ時、一人の老いた農夫が、私に近づいてきた。彼は顔を伏せながら、静かに口を開いた。
「お嬢様……昔、奥方様も、こうして来てくださいましたなあ」
その言葉は、私の中で何かが微かに揺らぐ音を立てた。それは、私自身の過去と、この土地の歴史が交差する、予期せぬ響きだった。私は足を止め、彼を見つめた。彼の視線は、私をただの令嬢としてではなく、過去の誰かの記憶と重ね合わせているようだった。
私は何も答えなかった。言葉を発すれば、この場が崩れ去るかもしれない。しかし、その言葉の裏に隠された、何らかの繋がりを感じ取った。私はただ、その言葉を静かに受け止めることだけを許された。この瞬間、私は、自分が単なる異世界からの転生者ではなく、この土地の、ある種の記憶の一部になりつつあることを、漠然と感じ始めていた。




