[05] 見落としていたもの
貴族院婚姻管理局婚姻監査部・部長代理室。
窓から差し込む夕陽が、室内を赤く染めていた。
部屋では、アルフレッド・アスター男爵は、資料を睨みつけていた。
「原因は何だ……」
机の脇には未処理の書類箱が積み上がり、古紙とインクの匂いが室内にこもっていた。
机の上には、実態調査や婚約制度見直しなどの企画書が、差し戻しの付箋だらけで乱雑に置かれている。
「よう! アル、元気か?」
ノックもせずにイグナーツ・ケッヘル侯爵が入ってくると、アルフレッドの渋面はさらに酷くなった。
「何の用だ、イグナーツ。財務監査部は、相当暇なんだな」
イグナーツは打ち合わせ用のソファに座り、足を組んだ。
「機嫌が悪そうだな。何の資料を見てるんだ?」
イグナーツに問われ、アルフレッドはグラフが書いてある資料を見せた。
「婚姻監査部として20年余り情報を収集しているのだが、ここ数年の間に婚約破棄の数が倍増している」
「うむ。婚約破棄の数は、増えてるのか。気づかなかったな」
「何だ? 何かあるのか?」
「貴族の財産は減ってるのさ。一時的なのかもしれないがな。減って、元に戻す者もいれば、減り続けて没落する者もいる」
アルフレッドは、眉間を押さえた。
「我らの友も同様だよ」
「……アンソニーか?」
「ああ。あと、1時間で局を出るぞ! 忘れてないだろうな? その確認に来たんだ」
アルフレッドは驚いて、壁掛け時計を見た。
時計は午後5時を回っていた。
ブランドン男爵家。
沈痛な面持ちの執事に案内されたアンソニーの部屋は、アルコールと異臭で充満していた。
床には酒瓶と吐瀉物が散乱し、アンソニーは隅で丸まっていた。
アルフレッドは愕然とした。
イグナーツが窓を開ける。
夜風が入り、空気がましになった。
アルフレッドは、アンソニーが持つ酒瓶を取り上げた。
アンソニーは、顔を上げた。無精ひげが覆う顔は、やつれていた。
「返してくれ」
アルフレッドは、頭を左右に振った。
「湯あみしろ。話を聞きたい」
「そうだよ、アンソニー。聞かせてくれ、何があったのか。話せば少しは気が晴れるんじゃないか?」
イグナーツがアンソニーに水が入ったグラスを渡した。
アンソニーは、最初は躊躇っていた水を口に含んだ。
1時間後。
湯あみが終わったアンソニーは、先ほどより精気が戻ったように見えた。
それでも、かつての精悍な姿には程遠い。
恋はこんなにも人を変えるものなのかと、アルフレッドは驚倒し、身震いした。
幼いころから騎士らしかった友は、見る影もなく疲弊していた。
アンソニーはよろめきながら歩き、引き出しから出した書類をテーブルの上に置いた。
「これは?」
イグナーツの問いにアンソニーは消え入りそうな声で応じた。
「報告書だ。そこに答えがある……いや、答えがあったのに俺はそれを軽んじたのだ」
アンソニーは両手で顔を覆い、泣き出した。
アルフレッドとイグナーツは、報告書とアンソニーの話を突き合わせ、ようやく事の次第を把握した。
「お前は、フランセス令嬢を誤解したまま婚約破棄をしたということか」
イグナーツの声が低くこもる。
「ああ。俺の短慮が原因だ。薄幸なフランセスをどん底に陥れてしまった」
アンソニーのかすれた声が心に響く。
だが、アルフレッドは首を傾げた。
「……そうとも言えないのではないか?」
アンソニーが顔を上げ、イグナーツは口を開けたままだった。
「この後、令嬢はどうなった?」
「え?」
「慰謝料に700ゴールド払ったんだろう? しかも、父親や家の口座ではなく令嬢個人の口座だ。たった半年の婚約で、700ゴールドの大金、彼女はどうする気なのだ?」
アンソニーは、アルフレッドの胸倉を掴んだ。
「貴様まで、フランセスを愚弄するのか?」
アルフレッドは、冷静だった。好奇心のほうが先立っていた。
「落ち着け、アンソニー。僕はただ、知りたいだけだ。お前が婚約破棄を取り消したにも拘わらず、受け入れずに別れを告げた令嬢が、今、どうしているのか」
アンソニーは呆然とし、ソファに座り込んだ。
イグナーツも首を傾げた。
「確かに……家族からも蔑まれていたんだ。普通の令嬢なら、そのまま婚約するよな」
「そうだろう? 仕事柄、いろいろな婚約破棄の話を聞いてきたが、こんなの初めてだ」
アルフレッドが呟く。
アンソニーは虚ろな目で、アルフレッドを見た。
「俺は知らない。あの後、弁護士に任せたままだったから……」
イグナーツは、アンソニーに視線を向けた。
「お前の家門の弁護士は、アルベール・クロイ男爵・貴族院弁護士だったよな」
「ああ。昔から家門同士で付き合いがある」と、アンソニーが静かに答えた。
するとアルフレッドは、報告書を再び手に取った。
「この報告書にはハラハ事務所と書かれているが」
「そうだ。クロイ男爵と師弟関係にあるテオドラ・ハラハ伯爵令嬢が調査してくれたんだから」
「ハラハ伯爵と言えば、何百年と続く名門じゃないか。そんな令嬢が自ら調査を?」
アルフレッドが驚くと、イグナーツが答えた。
「5、6年前に、両親が亡くなり、借金で首が回らなくなったからな。長兄が爵位を継いだ後、王都の屋敷を売って兄妹で領地に戻ったと聞いていたが」
名門伯爵家の令嬢が王都へ戻り、調査の仕事をしている。
かつて聞き及んだ“ハラハ伯爵家”の響きとは、あまりにもかけ離れていた。
アルフレッドが思案していると、アンソニーが不意に拳を握り、立ち上がった。
「俺はショックでフランセスがどうしているのか、気が回ってなかった。彼女がまだ、セシル男爵家にいたら酷い目に遭っているに違いない!」
イグナーツはアンソニーの肩を掴み、無理やり座らせた。
「冷静になるんだ。お前が今行ったところで、事態は悪化するだけだ」
「だが!」
「なあ、まずは、ハラハ伯爵令嬢に会いに行くのはどうだ?」
アルフレッドの提案にアンソニーもイグナーツも眉根を寄せた。
「何で?」
「フランセス嬢に会いに、セシル男爵家へ行っても真実はわからない。自分たちの都合の良い嘘を平気でつくからな」
アルフレッドの言葉に、アンソニーもイグナーツも頷いた。
「それに、フランセス嬢の弁護士は、セシル男爵家と繋がっているし、守秘義務を盾に教えないだろう?」
アンソニーとイグナーツは顔を見合わせた。
「一方で、クロイ弁護士は調査に関わっていない。動いたのはハラハ令嬢だからな。それに、彼女なら、知っていれば教えてくれるだろう。お前がまたクライアントになれば」
理路整然と話すアルフレッドに、アンソニーとイグナーツは言い返す言葉が無かった。
2日後。ハラハ事務所。
アルフレッドは、アンソニーと共にテオドラとテーブルを囲んでいた。
テオドラは、他の貴族令嬢のように着飾ることもなく、既製服を着て待っていた。
そばかすの多さが目を引いたが、結った黄褐色の髪が翡翠のような瞳を際立たせていた。
「そちらの方は?」
テオドラに尋ねられ、アンソニーは困った顔でアルフレッドを見た。
「アンソニーの幼馴染で、アルフレッド・アスターと言います。アンソニーが心配で同行しました」
テオドラはちらりとアンソニーを見ると、何か言いかけて、やめた。
そして、机の上にあった砂時計を手にした。
「念のためお伝えしますと、相談料は30分10シルバーです。この砂時計が30分を示します。よろしいですか?」
アルフレッドは面食らったが、アンソニーは黙って頷いた。
「では、ご用件を」
「……フランセス嬢は、どうしてますか?」
アンソニーは弱々しい声で尋ねた。
テオドラは、言葉を探すように一瞬だけ視線を落とした。




