[10] 消えた証言
次の日。
テオドラは平民や貧乏貴族が主に足を運ぶ乗馬クラブ、ホラン・クラブにいた。
上流階級が会員になっているレアル・クラブとは違い、気軽に乗馬が楽しめるクラブだった。
テオドラは、久しぶりにホラン・クラブに足を踏み入れた。
乗馬が好きで、両親が生きている頃はタウンハウスの敷地に厩舎があった。
好きな時に好きなだけ乗れた日が懐かしかった。
両親が亡くなり、借金のために屋敷だけでなく愛馬も売り払った。
その時のことを思い出すと、いつも気持ちが沈む。
それでも、ここで馬に乗って思い切り駆ければ、少しだけ気持ちが軽くなった。
馬が、悲しみとの距離を少しずつ変えてくれたのかもしれない。
テオドラは、厩舎に向かった。
「こんにちは。ダルトンさん」
初老のダルトン夫妻が馬たちの面倒をみていた。
「おや、テオドラ様。久しぶりですな」
夫のフリッツが、馬房から顔を出す。
妻のケーテは、干し草を積んだ一輪車を押していた。
「テオドラ様、ニューフェイスがいますよ、乗りませんか」
ケーテは一輪車を置き、テオドラに声をかける。
テオドラは慌てて、両手を振った。
「いえ、今日は、こんな格好だし、乗れないの」
テオドラがスカートの両端をもってカーテシーを決めた。
「おや、まあ。そういえばそうだ」
フリッツが馬房から出てきて、ケーテの横に並ぶ。
「お菓子を持ってきたのよ。ちょっと休憩するのはどう?」
フリッツとケーテは、顔を見合わせた。
テオドラはフリッツとケーテと共に、厩舎の従業員が休憩に使っているベンチに座った。
ちょうど、木陰になり、気持ちいい風が抜ける場所だった。
競技用のサークルで乗馬をしている人々や、放牧されている馬を見渡せた。
「ここは、お二人に教えていただいたでしょ。私が一番好きな場所よ」
テオドラは微笑んだ。
持参したクッキーを取り分け、紅茶を注いで、フリッツとケーテに渡した。
「なんと、まあ。お気遣いくださって」
フリッツとケーテは、嬉しそうにクッキーを頬張った。
その時、馬を引いた女性を見つけ、ケーテが声をかけた。
「ミア、どうしたんだい?」
ミアと呼ばれた女性は立ち止まり、馬を優しくなでた。
「関節がちょっと痛いみたいで、少し、休ませます」
「ああ、そうしたほうがいい」
フリッツが頷いた。
「あの方、お若いですね」
ここの厩舎の従業員は、比較的年齢が高かった。
フリッツとケーテは50代、ミアはテオドラと同い年かそれより下に見えた。
「そうなんですよ。若い人は、大抵、貴族のお抱えになるか、レアル・クラブに行きたがりますからね」
ケーテは微笑んだ。
「あの子もしっかり勉強してますよ。父親の指導がいいから」
「本当だったら、もっと給金の良いところで働けるはずなんだ」
フリッツが、小さくため息をついた。
テオドラは、馬を引くミアを見つめた。
馬がしきりに尾を振っている。
一匹の大きなアブが、腹のあたりを飛び回っている。
ミアは気づかず、馬を引いていた。
テオドラは駆け出していた。
アブは一度離れたが、すぐに馬に戻ってきた。
ミアが振り返った時、馬が大きく頭を振った。
手綱が引かれ、ミアの身体がよろめいた。
次の瞬間、馬が前脚を高く上げた。
「危ない!」
テオドラはミアの腕を引っ張り、抱き寄せた。
馬の手綱がミアの手から離れる。
勢いで二人はもつれるように地面へ倒れ込んだ。
テオドラはミアを抱えたまま、馬から離れるように何度か地面を転がった。
馬は痛む脚を庇うように一度よろめき、それでも駆け出した。
「大丈夫ですか?」
テオドラはミアに声をかけた。
抱き寄せたミアの身体が、小さく震えているのがわかった。
ミアは小さく頷き、「大丈夫です」と掠れた声で言った。
テオドラとミアは立ち上がった。
「いたたた……」
腰を伸ばすと、あちこちが抗議するように痛んだ。
テオドラは顔をしかめ、服についた泥や雑草を叩き落とした。
「申し訳ございません。私のせいで」
ミアは頭を下げた。
「無事でよかったです」
テオドラは微笑んだが、ミアは俯き、まだ震えていた。
休憩室に入り、お互いに擦りむいた腕を消毒した後、ミアはテオドラにお茶を淹れた。
テオドラはカップを両手に持ったミアが、小さな吐息をついたのに気づいた。
「少しは落ち着きましたか?」
テオドラが尋ねると、ミアは静かに頷いた。
「ありがとうございました。でも、貴族の方のお洋服を汚してしまって……私、すぐには無理ですけど、弁償します」
「ああ。気にしないでください。洗濯すれば落ちますから。それに私、貴族と言っても貧乏貴族なんで、普通の貴族とは毛色が違うというか」
テオドラがおどけて言うと、ミアはきょとんとした顔を見せた。
「フフフ。要するに、貴族だと思わなくてもいいってことです……こちらのクラブは長いんですか?」
「え? ええ。2年半くらいです」
「先ほど、ダルトン夫妻が褒めてました。しっかり勉強なさってるって」
「そ、そんな。私なんか、まだまだです。もっと勉強しないと……」
「お父様が教えてくださっているとか」
テオドラが尋ねると、ミアは俯いた。
「はい。父は王立の馬匹訓練院を出てまして……」
「え?! すごい! 毎年30人しか入学できないんですよね?」
ミアは俯いたまま頷いた。
「実は、私も、通ってたんです」
テオドラはしばらく黙っていた。
聞き違いか確かめるように、相手の顔をもう一度見た。
馬匹訓練院を卒業したら、若いうちはレアル・クラブか王族や貴族の厩舎に勤めるのが慣例だった。
ミアは顔を上げた。
今にも泣きだしそうな顔だった。
「退学しなければいけなくなって……ごめんなさい。初めてお会いした方に言う事ではないのに」
「……退学は辛かったですね。私もアカデミーを途中で退学になったんです」
テオドラがそう言うと、ミアの顔つきが、不意に変わった。
目から零れそうだった涙が引き、瞬きさえ忘れたようにテオドラを見つめた。
「そんなこと……あるのですか?」
「ええ。貴族だって上から下まで、色々ありますから。でも、ミアさんにはお父様がいらっしゃるし、ここには経験豊富な人たちも、たくさんの馬もいる。学ぶには、とてもいい環境じゃないですか」
テオドラは、窓の外を眺めた。
ホラン・クラブの経営は補助金と寄付から成り立っている。
やりくりは厳しいかもしれない。
だが、馬も働く人も伸び伸びしている印象を持っていた。
ミアは短く頷いた。
「そうですね。未練がましいのは、自分でもわかってるんです」
「未練?」
「ええ。父は私の自慢の父です。私は父と一緒に仕事をしたかった……これが私の未練です」
ミアは涙を指で拭った。
「もう、一緒に働けないのですか?」
「……はい。父を雇ってくれるところは、もうありません」
ミアの言葉にテオドラの身体が、考えるより先に反応した。
全身が硬直し、浅くなった呼吸に合わせて肩だけが動いた。
優秀な人材をどこも雇わないなんて。
「何があったのか、お聞きしても?」
「父は事実を伝えただけです……」
ミアは、真っすぐにテオドラを見た。
「……どちらで働いていたのですか?」
「レアル・クラブです。3年前に事故があって。そこで、父は嘘をついたとして処罰されました」
テオドラは息を呑んだ。
3年前?
その言葉だけが、妙にはっきりとテオドラの耳に残った。
「嘘?」
「はい。でも、父は嘘つきではありません。それに、ただ、厩舎で人を見たと言っただけなんです。その人が貴族だったのと、後からその人が別の場所にいたと証言があって……」
「貴族? ……誰を見たのですか?」
「フォンカッテ伯爵です」
テレーゼの父親だった。




