第60話 また、帰ってくるために(2)
# 第60話 また、帰ってくるために
鍋の準備をしながら、青はできるだけ普段通りに手を動かした。
白菜を切り、ねぎを切り、豆腐を取り出し、鶏肉を一口大に分ける。だしを張った鍋に具材を並べていく作業は単純で、その単純さが今はありがたかった。
考えすぎると、胸のどこかが落ち着かなくなる。
手を動かしている方がいい。
リビングの方では、陽葵がテレビを見ながら時々こちらを覗き込んでいた。
「手伝おうか?」
「座ってろ」
「言うと思った」
「今日は疲れてるだろ」
「そこまでじゃないよ」
「それでも」
青がそう言うと、陽葵は少しだけ目を細めた。
「お兄ちゃん、やっぱり過保護」
「普通だ」
「普通じゃないって」
笑う声は明るい。けれどその明るさの奥に、どこか愛おしむような柔らかさがあった。
鍋が煮える。
ぐつぐつと小さな音を立て、湯気が立ちのぼる。部屋の中にだしの香りが広がり、外の冷たい空気とは違う、家のぬくもりが濃くなる。
青は鍋を卓上コンロに移し、取り皿と箸を並べた。
「できたぞ」
「はーい」
陽葵がソファから立ち上がってテーブルへ来る。その動きがほんの少しゆっくりだったことに青は気づいたが、あえて何も言わなかった。
「いただきます」
「いただきます」
鍋を囲む。
湯気の向こうに陽葵の顔が見える。その頬はほんのり赤く、目元は穏やかだった。
青は具材を取り分けて、先に陽葵の皿へよそう。
「熱いから冷ましてから食べろ」
「わかってる」
「猫舌だからな」
「それ、まだ覚えてるんだ」
「何年の付き合いだと思ってる」
「生まれたときからです」
陽葵は少し笑って、ふうふうと息を吹きかけてから、豆腐を口に運んだ。
「……おいしい」
「そうか」
「うん。鍋って、なんでこんなに安心するんだろ」
「簡単だからじゃないか」
「身も蓋もないなあ」
「事実だ」
それでも、陽葵は嬉しそうだった。
白菜を食べ、鶏肉を食べ、時々ご飯を口に運ぶ。量は多くないが、ちゃんと食べている。それだけで青の中に小さな安堵が広がる。
「紬ちゃん、またお見舞い来るかな」
陽葵が鍋を見つめたまま言った。
「来るんじゃないか」
「優しいよね、紬ちゃん」
「ああ」
「結愛さんもだし、凛花さんも……みんな、お兄ちゃんの周りって優しい人多いね」
「そうか?」
「うん。お兄ちゃんがそういう人を引き寄せてるのかも」
青は返事に困った。
自分が引き寄せているという感覚はない。ただ、気づけば周りにそういう人たちがいて、いつの間にか関わっていた。
「……たまたまだろ」
「またそうやって」
陽葵は少し呆れたように笑う。
鍋の湯気が二人の間で揺れる。
外では日が落ちかけている。窓ガラスには、室内の明かりがうっすら映り始めていた。
「こういうの、ずっとしたかった」
ふいに、陽葵が静かに言った。
青は箸を止める。
「こうやって家でご飯食べて、テレビ見て、あったかい鍋食べて。普通のことだけど」
「……ああ」
「病院だと、普通のことが一番遠いんだよね」
声は淡々としていた。悲しむようでもなく、責めるようでもなく、ただ事実を述べているだけのような口調。
だからこそ、青の胸には深く沈んだ。
「でも、今回はいっぱいできた」
陽葵は顔を上げて笑った。
「帰ってきてよかった」
その笑顔に、青は何か言わなければならない気がした。
けれど、適切な言葉が見つからない。
帰ってきてよかった。
青も同じように思っている。むしろ、それ以上だった。陽葵が家にいるだけで、部屋の空気が変わり、時間の流れが変わり、自分の呼吸まで少しだけ穏やかになる。
「また、帰ってこい」
結局、青はそれだけを言った。
陽葵は少しだけ目を見開き、それからやわらかく笑った。
「うん」
その一文字が、なぜだか痛いほど胸に残った。
◇
食後、青が食器を洗っていると、陽葵も立ち上がって隣に来た。
「いい、座ってろ」
「一個くらい拭く」
「無理するな」
「無理じゃないよ」
そう言って、陽葵は布巾を手に取った。
食器を拭く手つきは少しゆっくりだが、丁寧だった。グラスの縁を確かめるように、皿の裏まできちんと拭いていく。
「病院戻ったら、またしばらくこういうの無理かもだから」
ぽつりとそう言われて、青は手を止めかけた。
「だから、今はやる」
陽葵は何でもないように続けた。
「家のこと、ちょっとでもやりたいし」
青は黙って洗い物を続けた。
返事をすると、余計なものまで滲みそうだった。
食器を片づけ、温かいお茶を淹れ、二人でまた少しだけテレビを見る。陽葵は途中で小さく咳をしたが、「大丈夫」と先に言って笑った。青は薬の時間を確認し、水を差し出す。
陽葵は素直に飲んだ。
夜は、そうして静かに更けていった。
◇
翌朝。
昨日までの元旦らしい浮き立った空気は少し薄れ、現実が静かに戻ってきていた。
病院へ戻る日。
その事実が、朝から部屋のどこかに沈んでいるようだった。
青は必要以上に言葉を発さず、陽葵もまた、いつも通りに振る舞おうとしているのがわかった。
荷物は多くない。
持ってきた服や小物をまとめ、必要なものをバッグへ入れていく。陽葵は途中で何度か自室に入り、何かを確認しては戻ってきた。
そのたびに、青はあの“整いすぎた部屋”を思い出したが、やはり何も聞かなかった。
聞いてしまえば、もう後戻りできない気がした。
昼前にマンションを出る。
空は昨日ほど明るくはなかったが、それでも冬らしい透明感があった。吐く息は白く、駅前へ向かう道にはまだ正月休みの雰囲気が残っている。
病院までの道のりは、来たときよりずっと短く感じられた。
楽しみな時間へ向かう道は長く、終わりへ向かう道は短い。
そんな当たり前のことを、青は改めて知る。
病院の建物が見えてくると、陽葵は少しだけ足を緩めた。
青もそれに合わせる。
入口の前で立ち止まると、陽葵はバッグの持ち手を握り直して、青を見上げた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「いよいよ受験だね」
「ああ」
短く答える。
それしか言えない。
「頑張ってね」
「……ああ」
陽葵はそこで少しだけ視線を落とし、すぐにまた笑顔を作った。
「何もできなくてごめんね」
青の眉がわずかに動く。
「何言ってる」
「だって、前は応援することくらいはできたのに、今はお見舞い来てもらうばっかりで」
「そんなことはない」
青の声は、自分でもわかるほど強かった。
「陽葵がいるだけでいい」
言ってから、自分で少し驚く。
けれどそれは、飾りでも慰めでもなく、本心だった。
陽葵はその言葉を聞いて、少しだけ目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。
「……そっか」
「ああ」
冬の空気が、二人の間を通り過ぎる。
病院の自動ドアが開いては閉じ、白い光が中から漏れている。ここから先は、また病院の時間だ。
陽葵はバッグを抱え直し、できるだけ明るい声で言った。
「しばらく病院は来なくていいからね」
青は表情を変えないまま、その言葉を受け止めた。
だが胸の奥では、何かが小さく軋んだ。
「受験に集中してほしいし」
陽葵は続ける。
「ちゃんと勉強して、ちゃんと受かってほしい。私のこと、あんまり気にしないで」
「無理だ」
即答だった。
陽葵が少しだけ困ったように笑う。
「やっぱり、そう言うと思った」
「気にしないでいられるわけないだろ」
「うん……でも、来なくていいっていうのは、来ないでほしいってことじゃないからね」
その言い回しが、妙に陽葵らしかった。
「お兄ちゃんがちゃんと前向いてくれるのが、一番うれしいってこと」
青はすぐに返事ができなかった。
前を向く。
それは正しい。
受験もある。将来もある。医者になるという目標は、陽葵のために始まったものでもある。
けれど、病院に来なくていいと言われて、そのまま従えるほど、青は割り切れなかった。
「……時間は作る」
ようやく出た言葉は、それだった。
陽葵は小さく息をついて、少しだけ笑った。
「うん。お兄ちゃんらしい」
その言い方は、昨日神社からの帰り道で聞いたのと同じ響きを持っていた。
青らしい。
たぶん陽葵は、自分の兄が簡単に折れないことを、誰よりよく知っている。
「じゃあ、行くね」
陽葵が一歩、後ろへ下がる。
「またな」
「うん。また」
その“また”が、どうか本当に次へ繋がる言葉でありますように。
青は口には出さず、そう願った。
陽葵は病院の入口へ向かって歩き出す。数歩進んだところで振り返り、小さく手を振った。
青も軽く手を上げる。
そして、自動ドアが開いて、陽葵の姿を白い光の中へ飲み込んだ。
扉はすぐに閉まる。
それだけだった。
それだけのことなのに、青はその場をすぐに動けなかった。
◇
病院の前には、冬の乾いた風が吹いていた。
行き交う人の足音。救急車の遠いサイレン。建物の中から漏れてくる、消毒液の匂いを含んだ空気。
青はしばらく立ち尽くしたまま、閉じた自動ドアを見ていた。
また来る。
そう言った。
時間は作るとも言った。
どちらも本心だ。
受験が近づいても、勉強が詰まっても、来ないという選択肢はない。
けれど、それと同時に、陽葵の言葉の意味も痛いほどわかっていた。
自分のせいで、青の未来を狭めたくない。
自分のために、大事なものを後回しにしてほしくない。
陽葵はたぶん、そう思っている。
いつもそうだ。
自分のことより、青のことを優先してしまう。
「……何もできなくて、か」
青は小さく呟く。
そんなことはない。
むしろ、自分は今までずっと陽葵に支えられてきた。勉強を続けられたのも、折れずにいられたのも、医者を目指す理由を見失わずに済んだのも、全部、陽葵がいたからだ。
それを本人だけがわかっていない。
青はゆっくりと息を吐き、病院に背を向けた。
歩き出す足は重い。
だが止まるわけにはいかない。
もうすぐ三学期が始まる。学校が始まれば、日常は容赦なく戻ってくる。受験も、本番に向かって一気に加速する。
その現実の中へ、自分は戻っていかなければならない。
けれど、家に戻れば、きっと昨日までの陽葵の気配がまだ残っている。
ソファに座っていた形。笑い声。鍋の湯気。玄関に立つ小さな影。
それら全部が、しばらくは部屋の中に留まり続けるだろう。
青は空を見上げた。
冬の空は高く、青く、静かだった。
元旦の華やかさはもう遠い。けれど、陽葵と過ごした数日間の温度は、まだ胸の奥に確かに残っている。
また、帰ってくるために。
その言葉を、青は心の中でそっと繰り返した。
病院から家へ。
そして、家からまた病院へ。
その往復が、これからも続くのだと信じるために。
青はマフラーを少しだけ握り直し、静かな冬の道を一人で歩き出した。




