第60話 また、帰ってくるために(1)
# 第60話 また、帰ってくるために
神社からの帰り道、冬の空気は行きよりも少しだけやわらかく感じられた。
元旦の昼下がり。道の端には、まだ初詣帰りらしい人たちの姿がぽつぽつ見える。晴れ着の袖を押さえながら歩く人、子どもの手を引く両親、屋台の紙袋を提げたまま笑い合う家族。
そんな光景の中を、青と陽葵も並んで歩いていた。
陽葵はさっきまでの楽しそうな表情をそのまま残していたが、やはり少し疲れたのか、歩幅は行きよりゆっくりだった。けれどその顔には満足そうな色があって、青は何度も「もう帰るか」と言いかけては飲み込んだ。
マンションに着いて、玄関のドアを開ける。
外の冷たい空気から一転して、家の中の静かなぬくもりが二人を包んだ。
「はー……楽しかった」
陽葵はそう言って、玄関でブーツを脱ぐときに小さく息をついた。疲れた、というより、満たされたあとの深い吐息だった。
青は買ってきたものをテーブルに置きながら、短く答える。
「そうか」
「うん。ちゃんと元旦だった」
コートを脱ぎ、マフラーを外した陽葵の頬は、冷えた外気のせいで少しだけ赤くなっていた。神社へ行く前に整えていた髪も、歩いているうちに少しだけ乱れていて、それがかえって自然に見える。
青は何となく、その姿から目を離せなかった。
陽葵はバッグをソファに置き、白いウサギのぬいぐるみを抱き上げてから、思い出したようにこちらを見た。
「あの結愛さんって人」
突然名前が出てきて、青は一瞬だけ動きを止めた。
「……なんだ」
「絶対、お兄ちゃんのこと好きだね」
あまりにも自然な口調で言われて、青の手がぴたりと止まる。
「……っ」
間の抜けたような息が漏れた。
陽葵はその反応を見て、面白そうに目を細める。
「やっぱり気づいてなかったんだ」
「そんなことは……」
否定しかけて、言葉が続かなかった。
黒金結愛が自分に向ける視線。距離の近さ。何気ない気遣い。名前を呼ぶ声の柔らかさ。思い返せば、心当たりがまったくないわけではない。
だがそれを、妹からこうもあっさりと言い当てられるとは思っていなかった。
「見ててわかるよ」
陽葵はソファに腰かけながら言う。
「ずっとお兄ちゃんのこと見てたし、話しかけるときだけちょっと声が違うし」
「そんなに見てたのか」
「見てたよ。お兄ちゃんのこと見てる人は、なんとなくわかるもん」
その言い方が妙に落ち着いていて、青はかえって返す言葉を失った。
「いい人だね、結愛さん」
陽葵は続ける。
「弟くんと妹ちゃんにも優しかったし、私にもすごく自然に話してくれたし」
「……そうだな」
青は否定しなかった。
結愛がいい人間であることは、最初から知っている。
「お兄ちゃんも罪だねー」
「何がだ」
「そんなつもりないのに、優しくして、ちゃんと助けて、しかも本人はあんまり自覚がないところ」
「悪いことみたいに言うな」
「悪いこととは言ってないよ」
陽葵はくすりと笑った。
「でも、ちょっとずるい」
その言葉に、青は小さく眉を寄せた。
ずるい、という意味はよくわからない。自分では、ただ必要なことをしているだけだ。助けられるなら助ける。放っておけないなら手を出す。それだけで、そこに特別な意味はない。
けれど陽葵は、そういう青を昔からよく知っていた。
「別に……」
結局、青はそれしか言えなかった。
「ほら、そういうところ」
陽葵はまた笑った。
その笑顔には、兄をからかう妹らしい軽さと、少しだけ安心したような温かさが混ざっていた。
◇
しばらくのあいだ、二人はリビングでテレビを見ていた。
元旦らしい特番が次々と流れていく。お笑い、駅伝のダイジェスト、新春ドラマの予告、芸能人が神社で運勢を占う企画。画面の中は、どこもかしこも賑やかだった。
陽葵はソファの端に座って膝掛けを掛け、時々笑ったり、時々ぼんやりしたりしながら画面を眺めていた。青はキッチンでお茶を淹れたり、洗い物を済ませたりしながら、その気配を横目で見ている。
テレビの明るい音が部屋を満たしているのに、不思議と家の中は静かだった。
落ち着いている、と言った方が近いのかもしれない。
昨日までの年末特有の慌ただしさも、昼間の神社の喧騒も、この部屋の中にはもうない。あるのは、陽葵が時々立てる笑い声と、ページをめくるように切り替わっていく番組の音だけだ。
それが青には心地よかった。
途中、陽葵は「ちょっと部屋行ってくる」と言って立ち上がった。
「疲れたか」
「ううん。ちょっとだけ」
曖昧な返事をして、陽葵は自室へ向かう。
青は特に深く考えず、湯呑みを洗っていた。
だが、しばらくすると廊下の向こうから、かすかな物音が聞こえてくる。
引き出しを開け閉めするような音。紙を重ねる音。何かをしまうような、整えるような、小さな気配。
青は一瞬だけ手を止めたが、すぐにまた動かした。
たぶん、服でも片づけているのだろう。
おみくじをしまっているのかもしれない。病院に戻る準備を考えれば、部屋を少し整理していてもおかしくはない。
そう自分に言い聞かせながらも、昨夜に見た“整いすぎた部屋”の光景が、ふいに脳裏をよぎる。
だが青は、その違和感に名前をつける前に思考を止めた。
考えすぎるな。
今日くらいは、何も壊したくなかった。
やがて陽葵は戻ってきて、何事もなかったようにソファへ座った。
「何してた」
「ちょっとね」
「なんだそれ」
「秘密」
笑って誤魔化すその顔は、いつも通りだった。
だから青も、それ以上は聞かなかった。
◇
午後はゆっくりと過ぎていった。
駅伝を見ながら陽葵が「この人たち、朝からずっと走ってるの?」と真顔で聞いてきたり、バラエティの再現VTRに「絶対これ盛ってる」とつっこんだり、福袋特集を見て「今度、普通に学校行けるようになったら買いに行きたいな」と呟いたり。
どの言葉も、何気ない。
何気ないからこそ、青の胸に静かに積もっていく。
学校。
買い物。
福袋。
普通の高校生なら、特別でも何でもない話題。
陽葵にとっては、その「普通」が遠くにある。
それでも陽葵は、遠いものを遠いまま見つめて悲しむのではなく、いつか手に届くもののように話す。
その強さが、青には眩しかった。
気づけば、窓の外の光が少しずつ傾き始めていた。冬の夕暮れは早い。午後の穏やかな明るさは、ほんの少し目を離しただけで、もう淡い橙色に変わり始めている。
青は時計を見て立ち上がった。
「夕飯、作る」
「うん」
「鍋でいいか?」
キッチンへ向かいながら聞くと、陽葵は間髪入れずに答えた。
「うん! ありがと」
その声が思った以上に嬉しそうで、青は少しだけ振り返る。
「そんなに鍋が好きだったか」
「好きだよ。あったかいし、お正月の次の日っぽいし」
「どういう理屈だ」
「なんとなく」
理屈はないらしい。
だが、その“なんとなく”が陽葵らしい気もした。
◇




