第61話 三学期の始まり
第61話 三学期の始まり
目が覚めたとき、部屋はやけに静かだった。
冬の朝特有の、空気が凍りついたような静けさ。カーテンの隙間から差し込む光も弱く、世界そのものがまだ眠っているみたいだった。
氷凪青はしばらく天井を見つめたまま、体を動かさなかった。
……三学期初日。
頭の中でそう確認して、ようやく上半身を起こす。布団の中に残っていたわずかな体温が逃げ、冷たい空気が肌に触れた。
部屋の外に出る。
廊下も、リビングも、静まり返っている。
当然だ。
ここにはもう、二人分の生活音はない。
台所に立ち、冷蔵庫を開ける。中身は年末に補充したまま、あまり減っていない。外泊の数日間、確かにここで食事をしていたはずなのに、今はその痕跡すら薄く感じられた。
卵を取り出し、味噌汁用の鍋に水を入れる。手は迷いなく動く。何年も続けてきた一人分の朝食の手順。
椀を棚から取り出す。
――二つ、取ろうとして、止まった。
青は何も言わず、片方を戻した。
コンロの火をつける音だけが部屋に響く。
完成した朝食をテーブルに並べ、無言で座る。対面の椅子は空いたまま。そこに誰かが座ることは、しばらくない。
箸を取り、淡々と食べる。
味は分からないわけではない。ただ、特別何かを感じることもない。
食事を終え、食器を洗い、身支度を整える。コートを羽織り、バッグを持つ。
玄関へ向かう途中、足が一瞬だけ止まった。
廊下の奥――陽葵の部屋の扉。
閉じられたまま、動かない。
開ける必要はない。中がどうなっているかは、もう知っている。
それでも数秒だけ視線を向けて、青は何もせず踵を返した。
ドアを開け、外へ出る。
冬の空気が肺に刺さるように冷たい。
鍵をかけ、振り返らずに歩き出した。
* * *
星嶺高校の校門前は、冬休み明けにしては妙に静かだった。
浮かれた声はほとんどない。聞こえるのは「共通テスト」「願書」「模試」といった単語ばかり。三年生にとっての三学期は、もう学校生活の締めくくりではなく、受験本番への最終調整期間に過ぎない。
青は何も考えずに校舎へ入る。
教室の扉を開けると、すでに数人が席に着いていた。参考書を開いている者、スマートフォンで受験情報を見ている者、ぼんやりと窓の外を眺めている者。
葉山颯が手を振った。
「お、青。おはよ」
「……おはよう」
いつも通りの短いやり取り。それ以上の言葉は特に必要ない。
自分の席に着くと、隣では雪城凛花がすでにノートを広げて何かを書いていた。冬休み中も勉強していたのだろう、ということが一目で分かる整った筆跡。
青が座ると、凛花は一度だけ視線を上げた。
「おはよう、青」
「ああ」
それだけ言って、また視線を落とす。
そのとき――教室の扉が勢いよく開いた。
「おはよー! あけおめー!」
黒金結愛だった。
明るい声が教室の空気を一瞬で変える。冬の重たい雰囲気が、少しだけ軽くなる。
「おはよう」
「おはよ」
「おはようございます」
あちこちから返事が飛ぶ。
結愛は自分の席へ向かいながら、青たちの方を見た。
「いよいよって感じだね」
その言葉に、凛花と青はほぼ同時に頷く。
「ええ」
「ああ」
短い返答だが、意味は同じだった。
受験が始まる。
それだけだ。
* * *
ほどなくして、星崎真凛が結愛の机に身を乗り出した。
「ねえ結愛、青とは進展あった?」
周囲に聞こえないよう、小声で囁く。
結愛は少し考え、肩をすくめた。
「んー……イブにみんなでパーティーしたり、初詣でばったり会ったりはしたけど……大きな進展はないかな」
ちら、と青の方を見る。
「てかさ、受験前だし。そんな雰囲気でもないんだよね」
「そっかー」
真凛はどこか含みのある笑みを浮かべた。
「私の方はねー」
「え、なにその顔。進展あったの?」
「まあ……一応」
結愛が身を乗り出す。
「なに!? 誰!?」
真凛は少し照れたように視線を逸らし、教室の後ろを見た。
そこには葉山が友人と話している姿がある。
「颯だよね?」
「……うん」
「ええええ!? マジで!?」
思わず声が大きくなり、真凛が慌てて口を押さえる。
「ちょ、静かにって!」
「ご、ごめん……でも、いつの間に!?」
真凛は小さく息を吐き、話し始めた。
「クリスマスイブの日さ、街で偶然会ったの。駅前のイルミネーションのとこ」
その光景を思い出したのか、目が少し柔らかくなる。
「人すごくて、最初は気づかなかったんだけど……なんか見覚えある背中だなって思って。そしたら颯で」
「へえー」
「声かけたらさ、めちゃくちゃびっくりした顔してて。で、なんか……すごい無理して笑ってる感じだった」
結愛の表情が少し真面目になる。
「振られたばっかだったんだ」
「……うん」
「しかも、わりと本気で好きだったっぽくて。友達と来る予定だったのに一人だったみたいで」
真凛は自分の指先を見つめた。
「それで、なんか放っておけなくて……近くのベンチでずっと話聞いてた」
「真凛、優しいなあ」
「優しいっていうか……ただ、颯があんな顔してるの初めて見たから」
少しだけ照れたように笑う。
「最初はさ、いつもの調子で冗談言ったりしてたんだけど……だんだん普通に弱音吐き出してきて。『なんでダメだったんだろ』とか、『俺、何か足りなかったのかな』とか」
結愛は思わず目を丸くする。
「颯がそんなこと言うんだ」
「ね。私もびっくりした」
真凛は小さく頷いた。
「で、気づいたら、手握って慰めてた」
「えっ」
「寒かったし……震えてたから」
頬がほんのり赤くなる。
「そしたらさ、颯が急に静かになって……『真凛ってさ、こういうときずるいよな』って言って」
「なにそれ」
「意味わかんないでしょ。私も分かんなかった」
二人で小さく笑う。
「で、なんか……そのまま帰るのも変な空気だったから、コンビニでホットココア買って、またちょっと歩いて……」
真凛は視線を伏せた。
「気づいたら、告白してた」
「えええ!?」
「私も何言ってんだろって思ったんだけど……『ずっと好きだった』って言っちゃって」
沈黙が落ちる。
「……そしたら?」
結愛が息を潜めるように聞く。
「最初、すごい驚いた顔してた。で、しばらく何も言わなくて……ダメだったかなって思ったら」
真凛の表情が、ふっと柔らかくなる。
「『今の俺でもいいなら』って」
結愛が両手で口を覆った。
「それOKってことじゃん!!」
「うん……OKだった」
小さく頷く。
「だから……一応、付き合ってる」
結愛は衝撃を受けたまま固まり、次の瞬間、真凛の肩を揺らした。
「うそー! いいなー!! めっちゃ青春じゃん!!」
「ちょ、やめてって!」
真凛は慌てて周囲を見回す。
数人がこちらを見ているが、深くは気にしていない様子だ。
「うちはライバル手強いからなー」
結愛が苦笑しながら青の方を見る。
凛花も近くにいるため、視線の意味は分かりやすい。
青は気づいているのかいないのか、参考書を開いたまま無反応だった。
* * *
休み時間。
葉山が青の机に腰掛けた。
「聞いた?」
「……何をだ」
「俺のこと」
青は数秒だけ葉山を見て、頷いた。
「真凛と付き合ったらしいな」
「らしいってなんだよ。ちゃんと付き合ってるわ」
苦笑する。
「でもさ、正直まだ実感ないんだよな」
「そうか」
「昨日も普通にLINEしてただけだし。なんか、友達の延長みたいな感じで」
葉山は少しだけ遠くを見るような目をした。
「……でも、前より気持ちは楽」
その声は、いつもの軽さが少しだけ薄れていた。
「隣にいてくれるやつがいるって、思ってた以上に安心するもんなんだな」
青は何も言わない。
ただ聞いている。
「青も無理すんなよ」
ふいに葉山が言った。
「受験もそうだけど……色々」
「問題ない」
「お前、いつもそれだな」
呆れたように笑うが、責める感じはない。
「まあいいや。なんかあったら言えよ。俺、彼女できたし、ちょっと大人だから」
「意味が分からない」
二人の間に、わずかな笑いが生まれた。
* * *
始業式を終え、教室に戻る。
如月雫が教壇に立ち、クラスを見渡した。
「三学期は短いですが、最も重要な期間です」
落ち着いた声が教室に広がる。
「体調管理を最優先に。生活リズムを崩さないこと。不安は誰にでもありますが、それでも最後までやり切ってください」
誰も騒がない。
全員が黙って聞いている。
「困ったことがあれば、遠慮せず相談しなさい。あなたたちは一人ではありません」
そこで言葉を切り、わずかに微笑んだ。
「以上。ホームルームを終わります」
椅子が引かれる音が一斉に響く。
* * *
放課後。
教室にはすぐに静けさが戻った。多くの生徒が自習室や図書室へ向かっている。
青も席を立とうとしたとき、凛花が声をかけた。
「青」
「……何だ」
「少し疲れているのではない?」
「そうでもない」
「そう」
それだけで会話は終わりそうになったが、凛花は一瞬だけ視線を落とした。
「陽葵ちゃんは……」
青の手がわずかに止まる。
「病院に戻った」
「……そう」
それ以上は聞かない。
凛花は無理に踏み込まない。だが、気づいてはいる。
「今日は無理をしないことね」
「お前もな」
予想外の返答だったのか、凛花が少しだけ目を見開く。
しかしすぐに表情を戻し、頷いた。
* * *
帰宅。
玄関を開ける。
暗い。
静かだ。
当然だと分かっていても、一瞬だけ何かを期待してしまう自分がいることに気づく。
靴を脱ぎ、リビングへ入る。
何も変わっていないはずの部屋が、どこか広く感じた。
コートを掛け、机に向かう。
参考書を開く。
数式を追う。
手は動く。
理解もできる。
問題はない。
……はずだった。
ふと、スマートフォンに視線が落ちる。
画面を点ける。
新着メッセージはない。
履歴には、数日前のやり取りが残っている。
『お兄ちゃん、いよいよ受験だね。頑張ってね』
指が止まる。
返信しようとして、やめた。
画面を閉じる。
深く息を吐き、ペンを握り直した。
ページをめくる音だけが、部屋に響く。
三学期が、始まった。




