第62話 大丈夫だから(1)
第62話 大丈夫だから
大学共通テストを週末に控えた、一月のある昼休み。
星嶺高校三年A組の教室には、冬休み前までとは違う種類の静けさが満ちていた。
昼休みだというのに、騒いでいる生徒はほとんどいない。机を寄せ合って昼食を取っている者もいるが、話題は模試の判定や共通テストの時間配分、志望校の二次試験の配点ばかりだった。単語帳をめくる音、シャープペンシルの芯が紙を擦る音、参考書のページをめくる乾いた音。それらが重なって、教室全体に張りつめた空気を作っている。
氷凪青は自分の席で、簡単な昼食を口に運んでいた。
手元には数学の問題集が開かれている。食事を取りながらでも確認できるように、朝のうちに付箋を貼っておいたページだ。視線は文字を追っている。理解もできている。だが、その頭の片隅には、別のものが居座っていた。
陽葵。
年末年始に家へ帰ってきた妹の笑顔。鍋を囲んだ夜。初詣の人混みの中で握った手。病院へ戻る日の、やけに明るい「しばらく病院は来なくていいからね」という声。
勉強の邪魔になるほどではない。だが、完全に消えてもいなかった。
「青、ちゃんと食べてる?」
向かいから声がして、青は顔を上げた。
黒金結愛が、自分の弁当箱を持ったままこちらを覗き込んでいた。金メッシュの入った髪が窓からの冬の日差しを受けて明るく見える。普段と同じように笑っているが、その笑顔の奥に、受験前らしい落ち着かなさが少しだけ混じっている。
「問題ない」
「ほんとに? 最近またちょっと適当になってない?」
「なってない」
「ならいいけど」
結愛はそう言って、青の机の横に立ったまま、ふうと小さく息を吐いた。
「なんかさ、いよいよだね」
「ああ」
青が短く返すと、結愛は苦笑した。
「青、こういうときもほんとにブレないよね」
「そうでもない」
「え、ちょっとは緊張してる?」
「してる」
あまりに淡々とした返答に、結愛が一瞬きょとんとしてから笑った。
「へえ。ちゃんと人間だったんだ」
「お前は何だと思ってた」
「受験のために作られた機械」
「失礼だな」
そのやり取りを少し離れた席で聞いていた葉山颯が、噴き出した。
「ははっ、言われてるぞ青」
「お前は黙ってろ」
「おー、珍しくちゃんと返した」
葉山は相変わらず軽い調子だったが、以前のような無邪気さだけではない。彼も彼なりに緊張しているのだろう。机の上には赤本と英単語帳が重ねられている。
その近くでは、星崎真凛がそんな葉山をどこか嬉しそうに見ていた。クリスマスイブのあとから、二人の間に流れる空気が少し変わったのを、クラスの何人かはなんとなく察していたが、あえて口にする者はいない。今の三年A組には、他人の恋愛を面白がるより、自分の進路を気にする余裕の方が大きかった。
隣の席では、雪城凛花が静かにノートを見直している。昼休みの間も一分一秒を無駄にしない、その徹底した姿勢はさすがだった。時折ペンを走らせる横顔は相変わらず整っていて、冷たい冬の光の中ではなおさら近寄りがたいほど綺麗に見えた。
だが青は知っている。
凛花もまた、表面ほど余裕があるわけではないことを。
そのときだった。
教室の前方の扉が勢いよく開いた。
普段なら、昼休みに担任が急いで教室へ入ってくることはあまりない。だからこそ、そこに立った人物を見た瞬間、何人かの生徒が反射的に顔を上げた。
如月雫だった。
いつもは落ち着いた足取りの彼女が、明らかに早足だった。表情も硬い。教壇の前まで来ると、真っ直ぐに青の方を見た。
「氷凪くん」
その声に、教室の空気が一瞬で変わる。
青は立ち上がりかけた。
「大変よ。急いで帰る支度をして」
一拍遅れて、雫が続ける。
「妹さんの容態が急変したそうよ」
言葉が、まっすぐ胸の奥へ落ちてきた。
何かが、真っ白になる。
青は一瞬、理解できなかった。
急変。
その二文字だけが、頭の中で何度も反響する。
「……っ」
立ち上がろうとして椅子が大きな音を立てた。手が机の端にぶつかり、筆箱が床へ落ちる。中のペンが散らばった。
普段の青ならありえない乱れ方だった。
結愛が思わず息を呑む。
「青……」
凛花も顔を上げ、目を見開いていた。
「青」
葉山の表情からも、いつもの軽さが消える。
だが青は誰にも返事をしなかった。
しゃがんでペンを拾う。その手が自分でも分かるほど落ち着いていない。一本だけ取りこぼしそうになって、ようやく自分が震えていることに気づいた。
「氷凪くん、車を出すわ」
雫の声が、現実へ引き戻す。
青は無言で頷き、最低限のものだけを鞄に詰めた。
結愛が何か言いかける。
「青、大丈夫……」
けれど、その続きを結愛自身が呑み込んだ。大丈夫なはずがないと分かっていたからだ。
凛花も席を立ちかけていたが、青の背中を見て、結局何も言わなかった。ただ強く唇を結んだまま、その背を見送る。
青は鞄を掴み、如月先生の後を追って教室を出た。
* * *
廊下を歩く音が、やけに大きく響いた。
昼休みの校内には、まだ食堂へ向かう生徒や、売店から戻ってくる生徒の姿がある。笑い声も少しは聞こえる。だが、それらは遠い世界の音のようだった。
「病院から学校へ連絡が入ったの」
雫が歩きながら簡潔に言う。
「詳しいことはまだ分からないわ。ただ、すぐ来てほしいと」
青は前を向いたまま尋ねた。
「今の状態は」
「分からない」
その一言が、何より怖かった。
分からない。
軽いのか重いのか、意識はあるのか、会話はできるのか。何も分からないまま、ただ急げと言われる。その不確かさが、最悪の想像ばかりを膨らませる。
昇降口で靴を履き替える手元すらもどかしい。うまくかかとが入らず、青は舌打ちしそうになるのを堪えた。
雫が車のキーを取り出す。
「大丈夫とは言えない。でも、今は急ぎましょう」
教師としてではなく、一人の大人としての声だった。
青は短く頷いた。
* * *
如月先生の車が校門を出る。
冬の街並みが窓の外を流れていく。信号待ちの時間が、耐えがたいほど長く感じた。
青は助手席でスマートフォンを握りしめていた。病院からの着信履歴はない。陽葵からのメッセージも来ていない。こちらから連絡すべきか、何度も迷う。だが、今このタイミングで電話をかけて、もし出なかったら。あるいは、誰か別の人間が出たら。
その先を考えるだけで、指が動かなくなった。
画面を開いて、閉じる。
その動作を何度も繰り返す。
ふと、年始の光景が脳裏をよぎった。
陽葵が家のソファに座って笑っていたこと。鍋を囲みながら「こういうの、ずっとしたかった」と言っていたこと。病院へ戻る日に、まるでこちらを安心させるような笑顔で「しばらく病院は来なくていいからね」と言ったこと。
あのとき、どこかで感じた小さな違和感。
今になって、それが急に現実味を帯びて迫ってくる。
「氷凪くん」
ハンドルを握ったまま、雫が静かに口を開いた。
「こういうとき、最悪のことばかり考えてしまうものよね」
青は何も言わなかった。
否定できない。
「でも、病院に着くまでは落ち着いて。あなたが取り乱したら、妹さんはもっと不安になるわ」
「……はい」
やっと出た返事は、ひどく掠れていた。
雫はそれ以上は言わなかった。
余計な慰めも、根拠のない大丈夫も口にしない。その誠実さが、今の青にはありがたかった。
* * *




