第62話 大丈夫だから(2)
第62話 大丈夫だから
病院へ着く。
見慣れたはずの建物が、今日は別の場所のように見えた。
自動ドアを抜けると、消毒液の匂いが鼻を刺す。受付の前を通り、エレベーターを待つ。数十秒が異様に長い。上がっていく間のわずかな揺れすらもどかしい。
病室のある階に着くと、青は早足で廊下を進んだ。走り出したい衝動をどうにか押さえる。ここは病院だ。騒いではいけない。分かっているのに、心だけが先に走っていく。
病室の前で、足が一瞬止まった。
ドアの向こうにいるのが、どんな状態の陽葵なのか。
その想像を振り切るように、青はドアを開けた。
「陽葵!」
声が、思ったより大きく出た。
病室の白い光の中、陽葵はベッドの上に起き上がっていた。
背をクッションに預け、こちらを見ている。
生きている。
意識もある。
その事実だけで、一瞬、膝の力が抜けそうになった。
「お兄ちゃん」
陽葵が、いつものように笑う。
だが、その笑顔を見た瞬間、青の胸の奥に別の痛みが走った。
細い。
前に会ったときより、明らかに細くなっている。
頬の輪郭が少し鋭くなっていた。首筋も、病衣から伸びる手首も、驚くほど華奢だ。肌は白く、もともとの色の白さとは違う透明さを帯びていた。
「ごめんね」
陽葵は困ったように笑った。
「大丈夫だから。新しい薬にしたんだけど、ちょっと合わなくてね。少しバタバタしただけ」
大丈夫。
その言葉は、あまりにも軽かった。
青はベッドの傍まで歩み寄る。
泣きそうになるのを、どうにか押し込めた。泣く資格なんてない。今、不安なのは自分ではなく陽葵のはずだ。
「……陽葵」
喉が詰まる。
「ちょっと、痩せたか?」
口をついて出たのは、それだった。
もっと他に言うべきことがあったのかもしれない。大丈夫か、とか、苦しくないか、とか。けれど青の目に最初に飛び込んできたのは、その痩せた体だった。
陽葵は一瞬だけ目を丸くして、それからいつものように笑った。
「そんなことないよ」
明るい調子で首を振る。
「ちゃんと食べてます」
けれど、その言葉とは裏腹に、鎖骨の線ははっきりと浮いていた。シーツの上に置かれた手の細さが、以前よりずっと心細く見える。
青は視線を逸らせなかった。
「……それなら、いいんだが」
本当は、よくない。
そんなことは分かっている。
だが、それ以上踏み込めば、目の前の現実をはっきり認めてしまう気がした。
陽葵はそんな青を見上げて、少しだけ表情を柔らかくした。
「ごめんね。学校だったのに」
「そんなのはいい」
「でも、びっくりしたでしょ」
「……した」
「だよね」
くすっと笑う。その笑い声さえ、少し掠れていた。
青はベッド脇の椅子を引いて腰を下ろした。
病室は暖かいはずなのに、指先だけが妙に冷たい。陽葵の顔を見ていると、数日前まで家で普通に笑っていたのが嘘みたいに思える。
「今は苦しくないのか」
「うん、平気。さっきより全然いいよ」
「そうか」
「先生たちがちょっと慌てすぎただけ」
冗談めかして言うが、その直後、小さく咳き込んだ。
すぐに口元を押さえて、何でもない顔をする。
「大丈夫」
青が何も言わないでいると、陽葵は話題を変えるように視線をずらした。
「それより、お兄ちゃん、明日からでしょ」
明日から。
大学共通テスト。
受験生にとっての最初の大きな山場。
「……ああ」
「ちゃんと寝ないとだめだよ」
陽葵の口調は、いつものように軽い。
まるで、今の話題の方が自分の容態より大事だと言うみたいに。
「もう帰って大丈夫だよ」
青はすぐには答えなかった。
帰りたくない、という思いが先に立つ。
今ここで帰って、明日試験を受けている間に、もしまた何かあったら。
そんな考えが頭をよぎる。
「今日は、ここに――」
言いかけたところで、陽葵が首を横に振った。
「だめ」
穏やかな声だったが、その拒絶は思った以上にはっきりしていた。
「お兄ちゃんには、ちゃんと受けてほしい」
「陽葵」
「私のこと気にして失敗したら、やだから」
少し笑ってから、また小さく息をつく。
「お兄ちゃん、ここまでずっと頑張ってきたでしょ」
青は何も返せない。
自分のためではない。
医者になると決めたのも、勉強を続けてきたのも、根っこにあるのはずっと陽葵だった。
その陽葵に、受けてほしいと言われる。
なら従うしかないのに、足が動かない。
「大丈夫だよ」
陽葵がまた言う。
今度の「大丈夫」は、さっきより少しだけ優しかった。
「今は落ち着いてるし、先生もいるし。何かあったらちゃんと呼ぶから」
青はその顔を見つめた。
自分を安心させるための笑顔だと分かる。分かっていても、その言葉にすがるしかない。
「……分かった」
ようやく絞り出す。
「何かあったら、すぐ呼ぶんだぞ」
「はーい」
いつもの返事だった。
その軽さが、逆に胸を締めつける。
「ほんとに分かってるのか」
「分かってますー」
少しだけ頬を膨らませる仕草まで、いつも通りに見せようとしているのが分かった。
青は伸ばしかけた手を、途中で止めた。
頭を撫でるには、陽葵があまりにも細く見えたからだ。
代わりに、シーツの上に置かれたその手にそっと触れる。
驚くほど軽い温度だった。
「……また来る」
「うん。試験終わったら、感想聞かせてね」
「感想を言うものでもない」
「じゃあ、できたかどうか」
「分かった」
陽葵が笑う。
その笑顔を目に焼き付けるみたいに、青は数秒だけ黙って見つめた。
病室を出る直前、陽葵がもう一度言った。
「お兄ちゃん」
青が振り返る。
「頑張ってね」
まるで年始に送ってきたメッセージを、そのまま口にしたような声だった。
青は小さく頷き、病室を出た。
* * *
病院を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
冬の夜気は、昼間よりさらに鋭く冷たい。
如月先生の車に戻ると、雫は青の顔を見て、何も聞かずにエンジンをかけた。病室でどんな会話をしたのか、細かく尋ねるつもりはないのだろう。
その沈黙がありがたかった。
車が動き出す。
窓の外には、帰宅を急ぐ人々や、駅へ向かう学生たちの姿があった。世の中は変わらず回っている。それが妙に遠く感じる。
「妹さんは?」
しばらくしてから、雫が短く尋ねた。
「今は落ち着いてるそうです」
「そう」
それだけで終わる。
しばらく走ってから、雫が静かに続けた。
「明日は、あなたの力を出してきなさい」
青は前を向いたまま聞いていた。
「妹さんも、それを望んでいるわ」
「……はい」
答えながらも、本当にそれでいいのかという思いは消えない。
陽葵の傍にいるべきではないか。受験どころではないのではないか。だが、それでも陽葵は受けろと言った。
だから、行くしかない。
* * *
その夜、家へ戻った青は、机に向かった。
参考書を開く。
問題文を読む。
意味は分かる。計算もできる。だが、数式の向こう側に何度も陽葵の顔が浮かんだ。痩せた手首。少し掠れた声。笑いながら「大丈夫」と言った表情。
スマートフォンを何度も確認する。
連絡は来ていない。
何も来ていないことに安堵し、同時に不安になる。
今すぐ病院へ戻りたい衝動を抑え、青はペンを握り直した。
受験は待ってくれない。
今夜だけで世界が変わるわけではない。
そう自分に言い聞かせる。
気づけば時計の針は深夜に近づいていた。
青はようやく参考書を閉じ、静かに息を吐いた。
「……明日か」
小さく呟いても、返事をする者はいない。
それでも、翌朝は来た。
* * *
大学共通テスト当日。
会場には、朝早くから多くの受験生が集まっていた。防寒具に身を包み、参考書や単語帳を手にした生徒たちの表情は硬い。張りつめた空気が、校舎の前にまで漂っている。
青もその中にいた。
試験会場へ入り、自分の席に着く。机の上に受験票と筆記用具を並べ、深く息を吸う。
陽葵のことが頭をよぎらないわけではない。
だが、問題用紙が配られ、試験開始の合図が鳴った瞬間、青の意識は目の前の問題へと切り替わった。
ここで止まるわけにはいかない。
自分がここまで積み上げてきたものを、無駄にはできない。
陽葵が受けてほしいと言ったのなら、なおさらだ。
国語、英語、数学、理科、社会。
試験は容赦なく進んでいく。
休み時間にスマートフォンを確認するたび、病院からの連絡がないことに小さく息を吐いた。連絡がない。それだけで、今はまだ大丈夫だと自分に言い聞かせることができた。
そして、共通テストは終わった。
* * *
週が明け、再び星嶺高校。
試験前よりも、教室の空気は少しだけ軽くなっていた。もちろん二次試験や私大入試を控えた緊張はまだある。だが、大きな第一関門を越えたという安堵が、クラス全体に漂っている。
自己採点の話題があちこちで飛び交い、誰かの「いけたかも」という声に、周囲が小さく反応する。
青が席に着くと、結愛がすぐに近づいてきた。
「凛花、青、試験どうだった?」
その声には、緊張と期待が入り混じっていた。
凛花がノートを閉じて答える。
「私は自己採点では大丈夫そう」
さすがに控えめな言い方だが、その表情は悪くない。
結愛がぱっと笑う。
「わたしも!」
そして、青を見る。
「青は?」
「俺もかな」
短いが、確かな返事。
結愛は両手を軽く握って喜んだ。
「よかったー! いったん、第一関門突破だね」
その言葉に、凛花も小さく頷く。
「ええ」
「ねえ、試験が全部終わったら、打ち上げはぱーってしようね」
結愛らしい明るさでそう言う。
未来の話。
試験が終わったあとのことを、自然に口にできる。それだけで、少しだけ救われる気がした。
「ええ」
凛花が答え、青も小さく頷く。
「ああ」
結愛は満足そうに笑った。だが、そのあとふと表情を和らげる。
「それはそうと、青」
「何だ」
「陽葵ちゃんは大丈夫だった?」
その問いに、青は一瞬だけ言葉を選んだ。
病室で見た陽葵の姿。細くなった手首。だが笑っていた顔。共通テストの二日間、病院から何の連絡もなかったこと。
「ああ」
青は答える。
「今のところは、大丈夫だ」
結愛の肩から、少しだけ力が抜けたようだった。
「そっか……よかった」
凛花も何も言わなかったが、わずかに視線を落とした。
今のところは。
その言葉の意味を、結愛も凛花も正確には問い返さない。
教室の外では、冬の風が窓を鳴らしていた。
第一関門は越えた。
そう思いたかった。
少なくとも、このときまでは。




