第63話 あと三か月(1)
第63話 あと三か月
大学共通テストから一週間ほどが過ぎた。
星嶺高校三年A組の教室には、試験直前の張りつめた重さとは少し違う空気が流れていた。もちろん、まだ何も終わってはいない。二次試験も私大入試もこれからだ。だが、共通テストという最初の大きな関門を越えたことで、生徒たちの表情にはほんのわずかな安堵が戻っていた。
朝のホームルーム前から、あちこちで自己採点と正式結果を照らし合わせる声が聞こえる。
「思ったより英語伸びてた」
「国語、やっぱ記述の配点で助かったかも」
「判定出し直さなきゃ」
そうした言葉の間に、乾いた笑い声が混じる。安心しきれない受験生特有の空気だった。
氷凪青は、自分の席で静かに結果表を見ていた。
数字を追う。
想定の範囲内だった。
共通テストは通過。東都大学医学部へ向かう道は、ひとまず途切れていない。
だが、その結果を見ても、胸の奥が強く動くことはなかった。
嬉しくないわけではない。ただ、それ以上に、別の場所へ心の半分が引っ張られている。
病院。
陽葵。
あの日から、青は以前よりも頻繁にスマートフォンを確認するようになっていた。連絡が来ていないことに安堵し、同時に、その安堵がひどく脆いものだとも分かっていた。
「青」
声に顔を上げると、隣の席で雪城凛花がこちらを見ていた。彼女も結果票を手にしている。
「どうだったの」
「問題ない」
青が短く答えると、凛花は小さく息を吐いた。
「そう。よかったわ」
その言い方は落ち着いていたが、目元にだけわずかな安堵が浮かんでいた。
そこへ、黒金結愛がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「凛花、青、どうだった!?」
声は明るい。だが、その明るさの下に自分自身の不安がまだ残っているのが分かる。
「私は大丈夫そう」
凛花が答える。
「わたしも! なんとかいけた!」
結愛はそう言ってから、青の方へぐっと顔を寄せた。
「青は?」
「通過だ」
たった二文字で十分だったらしい。結愛の顔がぱっと明るくなる。
「よかったー……!」
本気でほっとしたように胸を撫で下ろす。
「三人とも第一関門突破だね」
「ああ」
青は頷く。
結愛が嬉しそうに続ける。
「じゃあさ、全部終わったら、今度こそちゃんと打ち上げしようね。ぱーっと。みんなで」
「ええ」
凛花が穏やかに答える。
青も小さく頷いた。
未来の話だった。
試験が終わったあと。打ち上げ。笑って集まる時間。
そういう言葉を聞くたびに、少しだけ現実感が薄れる。自分にも本当にその時間が来るのか、うまく想像できなかった。
そのとき結愛が、ふと思い出したように声を落とした。
「……青、陽葵ちゃんは?」
青は少しだけ言葉を選んだ。
「今のところは、連絡は来ていない」
「そっか……」
結愛が小さく頷く。
「落ち着いてるってことだよね」
「……だといいが」
それ以上は言えなかった。
凛花がそのやり取りを黙って聞いている。何も口を挟まないのは、余計な慰めが青にとって意味を持たないと分かっているからだろう。
窓の外には、よく晴れた冬の青空が広がっていた。高く、冷たく、どこまでも遠い。
* * *
放課後。
教室には、帰り支度をする音がまばらに響いていた。自習室へ向かう者、予備校へ急ぐ者、帰宅して家で勉強する者。それぞれが次の試験へ向けて動き出す時間だ。
青も鞄に参考書を詰め、席を立とうとした。
「氷凪くん」
その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
教室の入口に如月雫が立っていた。
前にも見た表情だった。教師として平静を保っているが、瞳の奥にだけ隠しきれない硬さがある。
「来なさい」
それだけで十分だった。
青は何も聞かない。聞かなくても分かる。
鞄を掴み、教室を出る。
後ろで結愛が立ち上がる気配がした。
「青……」
凛花も何か言いかけたようだったが、二人とも結局その先は口にしなかった。
青の背中が、今は誰の言葉も受けつけないと分かっていたからだ。
* * *
病院へ向かう車の中は、異様に静かだった。
エンジン音と、時折タイヤが路面を踏む音だけが耳に入る。窓の外には夕方の街が流れていた。仕事を終えた人、買い物袋を提げた人、信号待ちをする学生たち。世界はいつも通りに動いているのに、自分だけがそこから切り離されていくような感覚があった。
青は助手席で、膝の上に置いたスマートフォンを見つめていた。
病院から学校へ連絡が入った。陽葵の病状が悪化した。
如月先生はそれ以上のことはまだ言わなかったし、青も聞かなかった。聞けば、言葉にされてしまう気がした。
赤信号で車が止まる。
その沈黙に耐えかねたように、青が口を開いた。
「如月先生」
「何かしら」
「……こんなときに、変なお願いをしてもいいですか」
雫はすぐには返事をしなかった。信号が青に変わり、再び車が動き出す。前だけを向いたまま、静かに問い返す。
「変なお願い?」
「はい……」
青は一度言葉を切った。
喉がうまく動かない。
「陽葵は……たぶん、ずっと俺のことを気にしてます」
それだけ言うのにも、思った以上に時間がかかった。
「自分のことより、俺の受験とか、その先のことばかり気にするんです」
雫は黙って聞いている。
「もし……あいつが、俺のことを心配するようなことを言ったら」
青は視線を落とした。
「先生を……そういう相手だと紹介しても、いいですか」
車内の空気が、わずかに揺れる。
雫はすぐには答えなかった。
驚いたのだろう。それは当然だ。担任教師に頼むような内容ではない。しかもこんな状況で。
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「それは……変なお願いね……」
責める響きではなかった。
ただ、その頼みがどれだけ不器用で、どれだけ切実なのかを、まっすぐ受け止めた声だった。
「けど、あなたの事情があるんでしょ」
雫は短く続ける。
「わかったわ」
青は目を閉じた。
「……ありがとうございます」
それ以上の言葉が出なかった。
* * *
病院に着く。
自動ドアを抜けた瞬間、消毒液の匂いが鼻を刺した。何度も来ている場所のはずなのに、今日はやけに冷たく感じる。
受付前を通り、エレベーターへ向かう。雫が並んで歩いているのが分かるが、青はそれを意識する余裕もなかった。
病室のある階に着き、廊下を進んでいく。
その途中で、一人の男性医師がこちらへ向かってきた。
陽葵の主治医だった。
「氷凪くん……ちょっと」
その呼びかけだけで、心臓が嫌な音を立てる。
主治医は病室の方へは行かず、廊下の端にある小さな面談スペースの方へ青を促した。
「如月先生、少しだけ」
「はい」
雫は一歩下がり、青を見送る。
面談スペースには簡素な机と椅子があるだけだった。白い壁。無機質な蛍光灯。妙に乾いた空気。
主治医は座るよう勧めたが、青は立ったままだった。
「……何ですか」
自分の声が、驚くほど平坦に聞こえた。
主治医は数秒だけ言葉を探すように黙り込んだ。
そして、静かに口を開く。
「言いにくいんだが……」
その前置きだけで、嫌な予感が現実へ変わる。
「妹さんは、あと三か月程度しかもたないかもしれない」
時間が止まったような気がした。
青は瞬きを忘れた。
言葉は耳に入った。意味も、理解できた。だが理解したくなかった。脳のどこかが全力で拒絶している。
「……え……」
かろうじて出た声は、言葉ですらなかった。
主治医は続ける。
「あらゆる手を尽くしている。新しい薬も試しているし、できることは続けている」
淡々とした説明のはずなのに、その一つ一つが胸を抉った。
「だが、完治は難しい。体力の低下が予想以上に早い。この先は、延命と対症療法の色が濃くなる」
青は何も言えない。
あと三か月。
その数字だけが、頭の中で何度も反響していた。
三か月。
春が来る前に。
受験が終わって、卒業して、その先へ進むより前に。
「……すまん……」
主治医の最後のその一言が、逆に残酷だった。
医者が謝る。
救えないことを、謝る。
青は視線を落としたまま、立ち尽くしていた。
自分は医者を目指している。
妹を救いたくて、医学部を目指している。
なのに、その妹に今届く手は、自分にはない。
今ここで何もできない。
その現実が、息苦しいほど重くのしかかった。
主治医が何か続けていたのかもしれない。今後の方針や、注意点や、面会のこと。だが、青の耳にはほとんど入ってこなかった。
気づけば話は終わっていた。
「……病室に戻っても、大丈夫か」
主治医が気遣うように聞く。
青は頷こうとしたが、うまくできなかった。
それでも、無理やり小さく首を動かした。
* * *




