第63話 あと三か月(2)
第63話 あと三か月
廊下へ出る。
足元が妙に頼りなかった。
病室へ戻らなければいけない。陽葵がいる。何も知らない顔をして待っているかもしれない。あるいはもう、とっくに気づいているのかもしれない。
どちらにしても、行かなければならない。
分かっているのに、足が前へ出ない。
「氷凪くん、大丈夫?」
如月先生だった。
すぐ近くに立っていた。主治医との話が終わるのを待っていたのだろう。
その顔を見た瞬間、青の中で、ぎりぎりで保っていた何かが切れた。
「先生……俺……」
そこまで言ったところで、言葉が続かなかった。
視界が滲む。
次の瞬間、青はその場に崩れるように膝をついていた。
「あと……三か月って……」
声が震える。
「俺、何も……何もできなくて……」
それ以上はもう言葉にならない。
ずっと抑えていたものが、堰を切ったように溢れた。
雫は何も言わず、すぐそばにしゃがみ込んだ。
肩にそっと手を置く。
「……いいのよ」
ただ、それだけを言った。
「今は、泣いていい」
優しい慰めでも、安易な励ましでもない。
泣くことだけを許してくれる声だった。
青は嗚咽を噛み殺すように俯いた。病院の廊下で、大きな声を出すわけにはいかない。そんな理性だけが、かろうじて残っていた。
それでも涙は止まらなかった。
陽葵は知っていたのかもしれない。
だからあんなふうに笑っていたのかもしれない。
だから「病院は来なくていい」と言ったのかもしれない。
全部が遅すぎた。
いや、本当はずっと、どこかで分かっていたのかもしれない。
分かっていながら、見ないふりをしていたのは自分だ。
* * *
しばらくして、青と雫は廊下脇のソファに座っていた。
青はようやく呼吸を整えつつあったが、目元はまだ熱を持っていた。感情を人前であそこまで露わにしたのは、いつ以来か思い出せない。
いや、たぶん、ほとんどなかった。
「氷凪くん、落ち着いた?」
雫が静かに聞く。
「……はい」
青は掠れた声で答えた。
「すみません。取り乱してしまって……」
「いえ」
雫は首を横に振る。
「ごめんなさい。なんにもフォローできなくて」
その言葉に、青は少しだけ顔を上げた。
教師なのに、大人なのに、それでも無力だと言う。
その無力さは、たぶん青が今抱えているものと同じだった。
「先生……」
青は息を吸い込み、それからゆっくり吐いた。
「さっきの頼み……いいですか」
雫はすぐには答えなかった。
その沈黙には、迷いも戸惑いもあっただろう。それでも最後には、それごと飲み込んで頷いた。
「……わかったわ」
青は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
それ以上は言えない。
言葉にすると、余計に苦しくなりそうだった。
「行きましょう」
雫が立ち上がる。
青も続いた。
病室へ戻るまでの廊下が、果てしなく長く感じられた。
* * *
ドアを開けると、陽葵はベッドの上で上体を起こしていた。
前に来たときよりも、さらに白く、さらに細く見えた。だがこちらを見る目だけは、相変わらず優しかった。
「お兄ちゃん」
そのあと、雫にも視線が移る。
陽葵はふたりの表情を見比べて、少しだけ眉を下げた。
「主治医先生の話、どうだった?」
静かな声だった。
「やっぱ、悪い話?」
青はベッドのそばまで歩み寄った。
ここで誤魔化すことはできないと思った。たぶん、陽葵はもう何かを感じ取っている。
「……ああ」
青の喉が震える。
「陽葵、もう長くないって……」
それだけ言うのがやっとだった。
陽葵は一瞬だけ目を閉じ、それから小さく笑った。
「やっぱそうかー」
その反応は、驚きではなかった。
覚悟していた人間の声だった。
「陽葵、実は知ってたんだ。ごめんね」
青は目を見開く。
「……知ってた?」
「うん」
陽葵はシーツの上に置いた自分の手を見た。
「だって、自分の体だもん。前よりしんどいし、ちょっと動くだけで疲れるし。先生たちの顔見てても、なんとなく分かるよ」
淡々とした言い方だった。
それが余計に痛かった。
「じゃあ、なんでもっと早く……」
責めるつもりではなかった。
ただ、どうして一人で抱えたのか、どうして言ってくれなかったのか、その悲しみがそのまま言葉になった。
陽葵は青を見上げて、困ったように笑う。
「お兄ちゃんのことだから、きっともっと陽葵に会いにくるでしょ」
「……それは」
「そんなの悪いし」
陽葵は続ける。
「受験もあるし。お兄ちゃん、今が一番大事なときだったから」
「そんなことはない……」
青の声が震えた。
そんなことはない。
ないはずなのに、実際には、自分は受験のために病院へ来る回数を減らしていた。陽葵がそう言ったからだという言い訳を、自分の中でどこか受け入れてしまっていた。
目の奥がまた熱くなる。
「お兄ちゃん」
陽葵が、やわらかく名前を呼んだ。
「泣かないで」
その言い方があまりにも優しくて、青は余計に苦しくなった。
「それより」
陽葵の視線が、青の隣に立つ雫へ向く。
「隣の女性は誰?」
静かな病室に、その問いだけがやけに軽く響いた。
青は一瞬だけ息を止める。
ソファで確認した頼みが、現実になる。
喉が乾く。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
「あ……こちら、如月さん」
青はできるだけ平静を装って言う。
「お付き合いしている方だ」
言った瞬間、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
陽葵の目が、少しだけ丸くなる。
「えっ」
そこへ雫が一歩前へ出た。
教師としてではなく、あくまで一人の女性として、静かに頭を下げる。
「氷凪くんとお付き合いをさせていただいている、如月雫といいます」
穏やかな口調だった。
「今日は突然ごめんね」
余計な説明はしない。
その簡潔さが、かえって誠実に見えた。
陽葵は数秒だけぽかんとしていたが、やがてふっと笑った。
「お兄ちゃん、ほんとに年上好きなんだね」
病室の空気が、少しだけやわらぐ。
青はわざとらしく咳払いをした。
「……そういうことじゃない」
「でも年上じゃん」
「否定はしないのね」と雫がごく小さく付け加え、陽葵がくすっと笑う。
その笑い声が聞けただけで、胸の痛みとは別の場所が少しだけほどけた。
青は陽葵を見て言う。
「だから、お兄ちゃんの方は心配いらないからな」
本当はそんなこと、言える立場ではない。
自分の方が、今この瞬間も陽葵に支えられている。
それでも、少しでも安心してほしかった。
陽葵は小さく頷いた。
「うん……」
けれど、そのあとに続いた声は、ほんの少しだけ掠れていた。
「けど、なんか寂しい……」
青は言葉を失う。
それは嫉妬ではないと、すぐに分かった。
自分がいなくなったあとの未来を、陽葵が見てしまったのだ。
お兄ちゃんは大丈夫だ。
でも、その未来に自分はいない。
その寂しさ。
雫もすぐには何も言えなかった。しばらくして、静かに陽葵へ向けて口を開く。
「寂しくさせてしまったなら、ごめんなさい」
やさしい声だった。
「でも、氷凪くんのことは、ちゃんと大切にします」
それは嘘を支えるための言葉のはずなのに、妙に本気に聞こえた。
陽葵はその言葉を聞いて、少しだけ目を潤ませながら笑った。
「そっか……なら、よかった」
* * *
そのあとは、三人でしばらく雑談をした。
あえて重い話を続けるのではなく、普通の話をした。
陽葵が「お兄ちゃん、外ではちゃんとしてる?」と聞き、雫が「ええ、とても落ち着いた方ですよ。少し無口ですけど、優しい方です」と答える。
青が「余計なこと言うな」と小さく返すと、陽葵が笑う。
そんな、本当に何でもない会話だった。
陽葵は「ちゃんとご飯食べてます?」とも聞いた。
雫は少し考えてから、柔らかく答える。
「私が一緒のときは、食べてくれますよ」
「ほんと?」
「ええ」
青は何も言わなかった。
否定してしまえば、この時間が壊れてしまう気がしたからだ。
「よかった……」
陽葵は安心したように目を細めた。
その表情を見て、青は痛いほど理解した。
陽葵が一番心配していたのは、結局最後まで自分のことだった。
自分がいなくなったあと、青がちゃんと食べるか。ちゃんと寝るか。ひとりで壊れずに生きていけるか。
そういうことを、きっとずっと考えていた。
だから、この嘘は必要だったのかもしれない。
たとえ一瞬でも、陽葵の不安を軽くできたのなら。
陽葵は途中で少し疲れたように息をついたが、それでも笑って話し続けた。青はそんな妹の様子を見るたび、胸の奥で何かがきしむのを感じていた。
この時間が、永遠には続かない。
その事実だけが、会話の隙間にずっと横たわっていた。
* * *
やがて面会時間もあり、青と雫は病室を出ることになった。
「また来る」
青が言うと、陽葵は小さく手を振った。
「うん。待ってるね」
その笑顔を、青はまともに見返せなかった。
病室を出てドアが閉まる。
廊下の白い光が、さっきよりも冷たく見えた。
雫が隣で静かに言う。
「氷凪くん、家まで送るわね」
「……はい」
青はそれだけ答えた。
それ以降、何も喋れなかった。
* * *
帰りの車の中。
窓の外に流れていく夜景が、にじんで見えた。
あと三か月。
その言葉が、頭の中から離れない。
陽葵は知っていた。
知っていて、隠していた。
自分のためではなく、青の受験のために。
自分の命の残り時間より、兄の未来を優先していた。
そんな妹を、どうして救えないのか。
どうして今の自分には何もできないのか。
助手席で握った拳に、いつの間にか爪が食い込んでいた。
雫は運転しながら、何も言わなかった。
慰めの言葉はない。励ましもない。
ただ隣にいてくれるだけだった。
その沈黙が、今はありがたかった。
マンションの前に車が止まる。
「着いたわ」
青は頷き、ドアに手をかけた。
だが、すぐには降りられなかった。
このドアを開ければ、また静かな家に戻る。
陽葵のいない部屋。
さっきまで笑っていた妹がいない現実。
それを受け止める準備が、まだできていなかった。
しばらくして、青はようやく小さく口を開く。
「……ありがとうございました」
雫は横顔のまま、静かに答えた。
「いいのよ」
それだけだった。
青は車を降りた。
夜の空気が冷たい。
鍵を取り出す手が、わずかに震えていた。
あと三か月。
その言葉を抱えたまま、青は暗い部屋の中へ戻っていった。




