第64話 止まった声
# 第64話 止まった声
二月に入ると、星嶺高校の空気は一段と張りつめたものになった。
廊下を歩けば、耳に入ってくる話題は受験のことばかりだ。私大の合否、共通テストの判定、二次試験の出題傾向、参考書の使い方、睡眠時間の削り方。誰もが口では平気そうに振る舞いながら、胸の奥ではそれぞれの不安と戦っている。
三年生の教室には、もう以前のようなにぎやかさはない。笑い声が消えたわけではないが、どこか上滑りしていた。昼休みでさえ参考書を閉じない生徒が増え、弁当を片手に問題集をめくる姿が当たり前になっている。
窓の外には、色を失った冬の木々が並んでいた。日差しはあるのに暖かさは足りず、放課後の校舎はすぐに冷える。春が近いのか遠いのかも、よくわからない。
そんな中で、黒金結愛は何度も斜め前の席へ視線を向けていた。
氷凪青。
――の、はずだった席。
そこは今、空いている。
最初に違和感を覚えたのは、妹の見舞いから戻った直後だった。青はいつも通り静かに座っていたが、どこか遠かった。返事はあるのに会話が続かない。視線は前を向いているのに、焦点が合っていない。疲れている、という言葉では説明がつかない種類の空白があった。
昼休み、結愛は思い切って声をかけた。
「青、妹さん……大丈夫だった?」
青は一拍置いて、言った。
「……ああ」
それだけだった。
声は平坦で、感情がほとんど乗っていない。いつも寡黙な彼でも、もう少しだけ温度があったはずだと、結愛は知っている。
「そっか。なら、よかった」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
それが、最後の会話になった。
その翌日から、青は学校を休み始めた。
最初は一日だけ。クラスメイトたちは深く気にしなかった。
「氷凪、追い込みじゃない?」
「東都大医学部だしな」
「家で勉強したほうが効率いいタイプでしょ」
確かに、そう言われればそうかもしれない。青は自分に必要なことを淡々と選ぶ人間だ。登校より自宅学習が合理的だと判断すれば、そうするだろう。
だが、結愛にはどうしても納得できなかった。
青は無断で消えるような人ではない。必要なら必要だと言う。来ないなら理由がある。人付き合いが得意ではなくても、筋は通す。そういう人だ。
だから、何も言わずに休み続けることが不自然だった。
二日、三日と欠席が続く。
教室の空席が、日に日に存在感を増していく。最初は「今日も来てないな」程度だったのが、やがて誰も触れない空白になっていった。
結愛は何度もスマホを取り出した。
『青、大丈夫?』
既読はつかない。
『体調悪いなら言って。何か持ってく』
それも反応なし。
電話をかけても、呼び出し音が鳴るだけで出ない。切れたあとの無音が、やけに冷たかった。
夜、ベッドに入っても眠れない。暗闇の中で、スマホの画面だけがぼんやりと光る。通知は来ない。来るはずがないとわかっているのに、何度も確認してしまう。
雪城凛花もまた、同じ不安を抱えていた。
生徒会室で書類を整えながら、何度も教室の空席が頭に浮かぶ。青は勉強程度で揺らぐ人ではない。彼の中で優先順位の上位にあるものを考えれば、原因は一つしか思い浮かばなかった。
陽葵。
だが、彼は何も言わない。助けを求めない。だからこそ胸がざわつく。
何度かメッセージを送ったが、返事はなかった。既読もつかない。電話も同じだ。
二月中旬、水曜日。
東都大学二次試験を週末に控えたその日になっても、青は現れなかった。
朝のホームルームで担任が「氷凪、欠席」と告げる。その一言が、結愛の胸を強く締めつけた。
もう、受験直前だから、では済まされない。
昼休み、結愛は凛花の席へ向かった。
「凛花ちゃん」
名前を呼ぶと、凛花はすぐに顔を上げた。彼女もまた、何かを待っていたような表情をしていた。
「今日も来てない」
「ええ」
「連絡つく?」
「つかないわ。既読もつかない」
「電話は?」
「出ない」
短い言葉の応酬の中に、同じ焦りがにじむ。
結愛は声を落とした。
「私、今日行く」
「どこへ?」
「青の家」
凛花の瞳がわずかに揺れたが、迷いは長く続かなかった。
「……私も行くわ」
「いいの?」
「放っておけないもの」
その言い方が凛花らしくて、結愛は小さくうなずいた。
「じゃあ、放課後」
「ええ」
放課後になるまでの時間が、やけに長かった。
チャイムが鳴るたびに落ち着かない。教科書を閉じる音、椅子を引く音、帰り支度をする生徒たちのざわめき。そのすべてが遠く感じられた。
約束通り、二人は青の家へ向かった。
冬の夕方の空は淡く暗み始めている。吐く息が白い。
並んで歩き出すが、会話はほとんどない。言葉にしてしまえば、最悪の想像まで形を持ってしまいそうだった。
駅前まで来たところで、結愛が足を止めた。
「ちょっと寄っていい?」
「ええ」
スーパーだった。
結愛は買い物かごに、おにぎり、スープ、ゼリー飲料、ヨーグルト、スポーツドリンクを入れていく。調理がいらず、弱っていても食べられそうなものばかりだ。
少し材料も買う。
「どうせ、何も食べてないでしょ……」
小さくつぶやく。
凛花は何も言わず、その背中を見ていた。
会計を済ませ、再び外へ出る。住宅街に入ると音が減り、足音だけが響く。冷たい空気が頬を刺した。
やがて青の住むマンションが見えてくる。
二人とも、自然と歩く速度が遅くなった。
オートロックを通り、エレベーターで上階へ。
廊下には誰の姿もなく、換気の機械音だけがかすかに聞こえている。
青の部屋の前まで来て、結愛はふと足を止めた。
ドア横の郵便受けに、紙が差し込まれたままになっている。
「……溜まってる」
チラシだけでなく、封筒も混ざっている。数日分はある。
「ずっと外に出てないのかな……」
凛花はドアを見つめたまま答えた。
「その可能性は高いわね」
喉がひりつく。
結愛はインターホンに手を伸ばした。
「押すね」
ピンポーン、と電子音が響く。
二人は息をひそめる。
返事はない。
もう一度押す。
同じ音が鳴る。
それでも反応はなかった。
「青! いる?」
結愛が呼びかける。
「青、私! 結愛!」
凛花も一歩前へ出た。
「青。雪城よ」
静かな声だったが、強い意志がこもっている。
しかし、返事はない。
ドアの向こうはしんと静まり返ったままだった。
結愛はその場で電話をかける。
呼び出し音。
一回、二回、三回――出ない。
「……出ない」
わかっていたことを口にすると、声が少し震えた。
凛花は玄関の下の隙間や窓を見た。
「電気は……ついているみたいね」
「いる、よね……?」
「……いる可能性は高いわ」
慎重な言い方が、かえって怖い。
結愛は唇を噛んだ。
「やっぱり……妹さんのことかな」
言った瞬間、心臓が重く鳴った。
凛花はすぐには答えない。
数秒の沈黙。
「……可能性はあるわ」
静かで重い声。
「でも、今は決めつけない。憶測じゃなくて現実を見ましょう」
その言葉に、結愛は小さくうなずいた。
「……もう一回押す」
ピンポーン――。
電子音が鳴り、再び静寂が落ちる。
今度もだめかもしれない。
そう思った、そのとき。
ドアの向こうから、かすかな物音がした。
二人は同時に顔を見合わせる。
いる。
だが、その確信は安堵ではなく、別の緊張を呼び起こした。
もし中にいるのなら、どうして今まで出なかったのか。
何があったのか。
時間にすれば数秒だったはずなのに、永遠のように長く感じる。
そして。
内側から、声がした。
「……はい……」
それは確かに、青の声だった。
聞き間違えるはずがない。
けれど――。
弱い。
かすれている。
ひどく遠くて、まるで別人のようだった。
「青……?」
結愛が思わず呼ぶ。
凛花も息をのむ。
「青……?」
返事はまだない。
ドアは閉じたまま。
ただ、その向こうに彼がいるという事実だけが、今までとは違う重さで二人の前に現れていた。
生きている。
――だが、何かが決定的に壊れている。
そんな予感だけが、冬の冷えた廊下に静かに満ちていった。




