第65話 守れなかったものの先で(1)
# 第65話 守れなかったものの先で
インターホンの向こうから聞こえた「はい」という声は、確かに青のものだった。
だが、それは黒金結愛と雪城凛花の知っている氷凪青の声ではなかった。
かすれていて、弱く、遠い。
喉だけでどうにか音を押し出したような、そんな声だった。
結愛は思わず凛花と顔を見合わせた。凛花もまた、息をのんでいるのがわかった。生きている。少なくとも声は返ってきた。それだけで安堵するべきなのかもしれない。なのに、胸の奥に広がったのは安心よりも大きな不安だった。
「青……? 開けて。私たち」
結愛がそう言うと、ドアの向こうで何かが擦れるような音がした。足音というより、床を引きずるような、力のない気配。
数秒の沈黙のあと、内側で鍵の外れる音がする。
カチ、と小さなその音が、冬の静まり返った廊下にはやけに大きく響いた。
ゆっくりとドアが開いた。
そこに立っていたのは、間違いなく氷凪青だった。
だが、二人が知っている彼とは、あまりにも違っていた。
髪は乱れたまま整えられておらず、頬は目に見えてこけている。目の下には濃い影が落ち、唇は乾いて荒れていた。着ている部屋着もしわだらけで、何日も同じものを着ているのだと一目でわかった。
なにより、その目だった。
青の目はもともと静かだ。だが、その静けさの底にはいつも揺るがない芯があった。必要なものを見据え、余計なものを切り捨てる、鋭く冷たい意志のようなものがあった。
今、二人の前にあるその目には、その芯が見えなかった。
視線は確かにこちらへ向いている。だが、その奥が空っぽだった。
「青……」
結愛の口からこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。
青は二人を見ても、驚いた様子を見せなかった。ただ、しばらく黙って立ち尽くし、それからかすれた声で言った。
「……何の用だ」
低い声。
けれど、そこにはいつもの静けさではなく、何も感じない人の平坦さだけがあった。
凛花が一歩前へ出る。
「学校に来ないから、心配して来たの」
「……そうか」
短く答えて、それきりだった。
結愛は手に持っていた買い物袋を少し持ち上げる。
「受験もあるしさ。さすがに、ずっと連絡つかないのは変でしょ」
「……別に、問題ない」
そう言う声に、説得力はまるでなかった。
問題がない人間は、こんな顔をしない。
結愛がさらに何か言おうとした、そのときだった。
青はドアに手をかけた。
「……もういい。悪いけど、帰ってくれ」
その動作で、二人は彼がドアを閉めようとしているのだと悟った。
「ちょ、待って!」
結愛が反射的にドアへ手を伸ばす。
「もう、ほっといてくれ……」
そう言った青の声は怒っているわけではなかった。突き放しているのでもない。ただ、本当に力が尽きていて、誰にも触れられたくないという弱々しい拒絶だった。
だからこそ、放っておけなかった。
「ほっとけないよ!」
結愛は思わず声を上げていた。
隣で、凛花もすぐに言う。
「私もよ」
青がわずかに眉を寄せる。
「……いいから」
「よくない」
結愛はドアを押さえたまま言った。
「青、今、自分がどんな顔してるかわかってる?」
返事はない。
「わかってないでしょ。だから、なおさら帰れない」
凛花も静かに続ける。
「少しだけでいい。中に入れて」
「……やめろ」
「やめない」
結愛の言い方はいつものように強かったが、その奥には震えがあった。
「青が何も言わないなら、なおさら放っておけない」
ほんの数秒、三人のあいだに沈黙が落ちる。
青はドアを閉める気力さえ尽きたように、力なく視線を落とした。
「……勝手にしろ」
それは許可というより、抵抗を諦めた声だった。
結愛と凛花は顔を見合わせ、靴を脱いで中へ入った。
部屋に足を踏み入れた瞬間、結愛は息を止めた。
空気が違う。
閉め切られた部屋特有の、よどんだ空気。食べ物の匂いと、洗っていない布の匂いと、生活が止まった部屋にしかない乾いた匂いが混ざっていた。
リビングに入ったところで、二人は言葉を失った。
テーブルの上には空のペットボトルや食べ終えた容器がいくつも置かれたままになっていた。ソファには脱ぎっぱなしの服が積まれ、床には参考書とプリントと洗濯物が無造作に散らばっている。カーテンは閉め切られ、部屋は夕方だというのに薄暗い。シンクには洗い物が山のようにたまり、ゴミ袋は口も縛られないまま隅に置かれていた。
誰かの暮らしの形が、途中で丸ごと止まってしまったような光景だった。
「……なに、これ」
結愛の口から、かすれた声が漏れる。
普段なら、もう少し軽く言えたかもしれない。だが今は無理だった。
「ちゃんと掃除してるとか、そういうレベルじゃないじゃん……」
青は玄関のあたりに立ったまま、こちらを見ようとしない。
「……手がつかない」
「青」
凛花が静かに呼ぶ。
青はしばらく黙って、それから、ひどく平坦な声で言った。
「……陽葵が亡くなった日から、何もしてない」
その一言で、部屋の空気がさらに重くなった。
結愛は反射的に息をのんだ。
頭のどこかではずっと、その可能性を考えていた。だが、はっきりと言葉にされると、心が追いつかなかった。
「……亡くなった、って」
結愛がかろうじて絞り出す。
青はうなずきもしない。
「……先週」
たったそれだけ。
詳しい説明はない。泣きも、怒りも、悔しさもない。ただ事実だけが、感情を失った声で置かれる。
それが余計につらかった。
凛花は唇を引き結んだまま、部屋を見渡した。
テーブルの端に置かれた病院の封筒。薬の袋。畳まれたままのブランケット。小さな花瓶には、枯れかけた花が一本だけ残っている。ここにあった時間の痕跡が、どれも途中で止まっていた。
陽葵がここにいたのかもしれない。
陽葵がいなくなったあと、青だけが取り残されたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が痛んだ。
結愛は青のほうを見た。
彼は何も表情を変えない。だが、それは平気だからではなかった。悲しみが大きすぎて、表に出す場所を失っているだけだと、今ならわかる。
凛花が静かに言った。
「わかった。私が片づけるわ」
結愛がはっとして振り向く。
凛花はもう覚悟を決めた顔をしていた。
「このままにはしておけないもの」
「うん、私もやる」
結愛もすぐに頷いた。
そして青をまっすぐ見て、少しだけ強い口調で言う。
「青、あんたはお風呂入ってきて」
青がゆっくり顔を上げる。
「……は?」
「入ってきて。いいから」
「別に……」
「別にじゃない」
結愛は一歩近づいた。
「臭うよ」
あえて少しだけ軽く言った。泣きそうな空気に引きずられたら、この部屋ごと沈んでしまう気がしたからだ。
「髪もぐちゃぐちゃ。顔色も最悪。ちゃんとあったまってきな」
凛花も続ける。
「そのあいだに、私たちでできることをするわ」
「……いい」
「よくない」
凛花の声音は静かだったが、譲る気はなかった。
「青、今は一人で全部抱える必要はないの」
その言葉に、青は目を伏せた。
反論する力さえないようだった。
「……悪い」
小さくそう言って、彼はようやく風呂場のほうへ向かった。




