第65話 守れなかったものの先で(2)
# 第65話 守れなかったものの先で
浴室のドアが閉まる音がして、しばらくしてから水音が聞こえ始める。
それを確認して、結愛は大きく息を吐いた。
「……やばいね」
小さな声で言う。
凛花は頷いた。
「ええ」
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
二人は黙ったまま手を動かし始める。
まずはカーテンを開ける。外はもう夕方の最後の光しか残っていなかったが、それでも閉じたままよりはましだった。窓を少し開けると、冷たい空気が部屋の中へ流れ込む。よどんでいた匂いが少しだけ薄れた。
結愛はテーブルの上の空容器をまとめ、ゴミ袋の口を縛る。シンクの洗い物に手をつけると、凛花は床に散らばった洗濯物やプリントを分け始めた。参考書は机へ、衣類は洗濯かごへ、書類は捨てるものと残すものに分ける。
手を動かしていないと、気持ちが押しつぶされそうだった。
結愛はスポンジを握りながら、ぽつりと言った。
「……つらかっただろうね」
凛花は洗濯物をたたむ手を止めずに答える。
「ええ」
「何も言わないんだもん、青」
「言えなかったのかもしれないわ」
「それでも……」
結愛は唇を噛んだ。
「私たち、もっと早く来ればよかった」
その言葉に、凛花は少しだけ手を止めた。
「私も同じことを考えたわ」
「……凛花ちゃんも?」
「ええ」
凛花は静かに息を吐く。
「でも、今それを言っても仕方ない。来たのは今日。それなら、今日できることをするしかないわ」
その言葉は厳しいようでいて、同時に救いでもあった。
後悔だけでは、青の部屋は片づかない。青の時間も戻らない。だから今は、動くしかない。
「……うん」
結愛は頷き、蛇口をひねった。
しばらくして、洗濯機が回り始める。掃除機の音が短く鳴る。フライパンを出し、冷蔵庫の中を確認する。
中には、ほとんど何も入っていなかった。古くなった調味料と、飲みかけの水、開封されたままの食材が少し。まともな食事をしていないことが、これでもかというほど伝わってくる。
「買ってきてよかった」
結愛が買い物袋の中身を取り出しながら言う。
「本当ね」
凛花がまな板を出す。
「何作る?」
「簡単なのでいい。とにかく、あったかいの」
「ええ」
二人で台所に立つ。普段なら少しぎこちなくなりそうな組み合わせだったが、今は不思議とそんな気まずさはなかった。同じ目的のために手を動かしている。その事実だけで十分だった。
鍋に火をかける音が、静かな部屋に小さく響く。
味噌汁を作り、卵を使ったやさしいおかずを一品、買ってきた惣菜も皿に移す。おにぎりは温め直し、食べやすいように並べる。
三人分の食器を出したところで、結愛の手が一瞬止まった。
本当は、ここに四人目がいたのかもしれない。
陽葵が、いたのかもしれない。
その想像が胸を刺したが、結愛は何も言わなかった。凛花も同じことを思ったのか、ほんの一瞬だけ視線を落としただけで、すぐに表情を戻した。
やがて、水音が止んだ。
少しして、青が浴室から出てくる。
濡れた髪をタオルで雑に拭きながら現れたその姿は、さっきよりほんの少しだけ人間らしく見えた。顔色がよくなったわけではない。目の奥の空洞も消えてはいない。けれど、少なくとも部屋の匂いと同じところに沈んでいた状態からは、少しだけ引き戻されたように見えた。
結愛はできるだけ明るい声を出した。
「はい、青。座って」
テーブルの上には夕食が並んでいた。
「私と凛花ちゃんで作ったの。食べて」
青はそれを見て、ほんのわずかに目を見開いた。
「……これは」
「すごくない?」
結愛が少しだけ胸を張る。
「ほら、冷める前に」
凛花も椅子を引いた。
青はしばらく立ったままテーブルを見ていたが、やがて小さく息を吐き、椅子に座った。
「……ありがとう」
その一言が、妙に弱々しかった。
「いただきます」
箸を持つ手つきまで、少し危なっかしい。
味噌汁を口に運び、少しだけ止まる。
それから、ゆっくりともう一口飲んだ。
結愛と凛花は、向かいからそれを見ていた。
ちゃんと食べている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
青は黙々と食べ続けた。たくさん食べるわけではない。それでも、何も口にしていなかった人間が少しずつ戻ってくるような、そんな時間だった。
食事が一段落し、部屋の中に少しだけ温かい空気が戻ったころだった。
青が不意に、箸を置いた。
「……俺」
その声に、二人が顔を上げる。
「大学、行くのやめるよ」
言葉はあまりにも静かで、だからこそ重かった。
結愛の思考が一瞬止まる。
「……は?」
青は目を伏せたまま、続けた。
「もう、行く意味なくなったから」
結愛は反射的に身を乗り出していた。
「なんでよ!」
声が強くなる。
「今まであんなに頑張ってきたじゃん! ずっと勉強して、ずっと目指してきたじゃん!」
青は何も言わない。
「なんでここでやめるの!」
「結愛ちゃん」
凛花が静かに呼び止めた。
「責めないで」
結愛がはっとして凛花を見る。
凛花は青から目を離さないまま、言った。
「青は、陽葵ちゃんのために医者になろうとしてたの」
結愛は息をのんだ。
もちろん、妹の病気が動機の大きな一つだろうとは思っていた。けれど、凛花の口からはっきりと言葉にされると、青のこの数年の重さが急に現実味を帯びた。
陽葵のために勉強してきた。
陽葵を救うために、医者を目指してきた。
その陽葵がもういないのなら、青の中で目標が崩れ落ちるのも無理はない。
結愛は唇を噛んだ。
理解はできる。痛いほど、できる。
それでも――。
「……それでも」
結愛はゆっくり息を吸った。
「それでも、やめることないでしょ」
青がゆっくり視線を上げる。
結愛は、まっすぐその目を見る。
「私、青と同じ大学行きたいもん」
言ってから、少しだけ耳が熱くなった。けれど今さら引っ込めるつもりはなかった。
「一緒に大学生したい。今まで受験でできなかったこと、いっぱいしたい。海とか、キャンプとか、旅行とか……そういうの、青としたい」
青の表情はまだ変わらない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「だから、ここで終わりにしないでよ」
凛花も静かに続けた。
「私も」
結愛が驚いて隣を見る。
凛花はわずかに頬を赤くしながらも、目は逸らさなかった。
「私も、青と同じ大学へ行きたい」
青が、ほんの少しだけまばたきをする。
「青と一緒の大学生活を送りたいの。勉強のことでも、それ以外のことでも……これから先の時間を、あなたと同じ場所で過ごしたい」
凛花らしい、静かでまっすぐな言葉だった。
部屋の中に沈黙が落ちる。
青はしばらく何も言わなかった。まるで、二人の言葉の意味を一つずつ確かめているようだった。
「……けど」
やがて、彼はかすれた声で言う。
「もう、目指すものがない」
それは言い訳ではなく、本音だった。
何を目標に前へ進めばいいのか、本当にわからなくなってしまった人間の声だった。
結愛は即座に言い返した。
「じゃあ、大学行ってから探せばいいじゃん」
青が少しだけ目を動かす。
「今なくてもいいよ。あとで見つければいい。青なら見つかるし、見つかるまで私が付き合うから」
「私も」
凛花も言う。
「青が一人で探せないなら、一緒に探すわ」
青は何も言わない。
結愛はさらに身を乗り出した。
「それに、あんた共通テスト通ったんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、まだ終わってないじゃん」
青は苦く笑うでもなく、ただ力なく首を振った。
「……しばらく、勉強してない」
ようやく出てきたのは、青らしい現実的な不安だった。
「今さら受かるかどうか、わからない」
結愛はその言葉を聞いて、逆に少しだけほっとした。
目標だの意味だのではなく、試験の話をしている。少なくとも彼の思考が、ほんの少しだけ現実に戻ってきている。
「大丈夫だよ」
結愛はできるだけ明るく言った。
「青なら大丈夫。共通テスト通ったんだから。それに、あと二日ある」
「二日しかない、でしょ」
「二日もある、だよ」
即座に言い返す。
凛花も静かに頷いた。
「私たちがいるわ」
「……え?」
「残りの時間、一緒にやればいい。要点整理でも、過去問の確認でも。今から全部を取り戻すことは無理でも、整えることはできる」
凛花の言葉は冷静だった。感情に押し切るだけではなく、ちゃんと方法を示している。
青はしばらく黙ったままテーブルを見つめていた。
その沈黙は長かった。
結愛も凛花も、急かさなかった。
きっと今、彼の中ではたくさんのものがぶつかっている。陽葵を失った痛み。目標を失った空白。立ち上がることへの恐怖。そして、目の前に差し出された二つの手。
部屋の時計は止まったままだったが、その沈黙の中でだけは、何かがゆっくりと動いている気がした。
やがて、青が小さく息を吐く。
「……わかった」
結愛が顔を上げる。
青はまだ目を伏せたまま、続けた。
「受けるだけ、受けてみる」
その言葉を聞いた瞬間、結愛の胸の奥で張りつめていたものが一気にほどけた。
「よかった……!」
思わずそんな声が漏れる。
凛花も、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「ええ。本当によかった」
青はそんな二人を見て、ほんのわずかにだけ、困ったような顔をした。笑ったわけではない。立ち直ったわけでもない。
それでも、その表情は、さっきまでの完全な空洞とは少しだけ違っていた。
結愛はその小さな変化を見逃さなかった。
戻ったわけじゃない。
でも、止まったままでもない。
たぶん今の青は、崖の縁に立ったままだ。少しでも気を抜けば、また落ちてしまうかもしれない。陽葵を失った現実が消えることはないし、悲しみが今夜で終わるわけでもない。
それでも。
その夜、青は一人で沈みきることをやめた。
失ったものは、もう戻らない。
守れなかった後悔も、消えない。
けれど、その痛みを抱えたままでも、誰かに支えられて立ち上がることはできるのかもしれない。
食卓の上には、食べ終えた器が並んでいた。部屋の空気は少しだけ入れ替わり、さっきまでの淀みは薄れている。洗濯機の回る音が奥からかすかに聞こえ、台所にはまだ温かい匂いが残っていた。
生活の音だった。
止まっていた部屋に、少しだけ戻ってきた日常の音だった。
青はテーブルの上でそっと手を組み、低くつぶやいた。
「……ありがと」
結愛は笑った。少し泣きそうだったけれど、泣かなかった。
「どういたしまして」
凛花も静かに微笑む。
「まだ終わりじゃないわ」
青は小さくうなずいた。
それはとても弱い動きだった。
けれど、確かに前を向こうとする人の動きだった。
彼はまだ救われていない。
それでも、その夜、初めて一人ではなくなった。




