第66話 動き出した時間
# 第66話 動き出した時間
翌朝、氷凪青は久しぶりに目覚ましの音で目を覚ました。
以前なら当たり前だったはずのその音が、どこか遠い場所の出来事のように感じられる。布団の中でしばらく天井を見つめ、鳴り続ける電子音をようやく止めた。
部屋は静かだった。
だが、昨日までとは違う静けさだった。
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、床に淡い四角を作っている。空気も、少しだけ澄んでいるように感じられた。鼻をつくような匂いはない。昨夜、結愛と凛花が窓を開け、掃除をしてくれたからだろう。
青はゆっくりと体を起こした。
視線の先に、整えられたテーブルがある。食器は洗われ、ゴミはまとめられ、散乱していた紙類も端に積まれていた。
――本当に、来てくれたんだな。
夢ではなかったのだと、ようやく実感する。
胸の奥がじんと熱くなったが、涙は出なかった。ただ、息が少しだけ重くなった。
台所へ行くと、鍋がきれいに洗われて乾かされている。冷蔵庫を開けると、昨日の残りの食材が整然と並んでいた。メモが一枚、扉の内側に貼られている。
『朝ごはん、ちゃんと食べてね。無理ならヨーグルトだけでも! —結愛』
その下に、きれいな文字で追記がある。
『体力を落とすと集中力も落ちるわ。温かいものを摂ること。—雪城』
青はしばらくその紙を見つめていた。
「……はは」
かすかな笑いが、自然とこぼれる。
自分でも驚くほど、久しぶりの感覚だった。
冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、スプーンで口に運ぶ。味はよくわからなかったが、確かに何かを食べているという感覚だけがあった。
そのとき、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
青は一瞬だけ体を強張らせたが、すぐにそれが誰かを思い出す。
玄関へ向かい、ドアを開ける。
そこには予想通りの二人が立っていた。
「おはよー、青!」
結愛がいつもの調子で手を振る。
「おはよう、青」
凛花も静かに微笑んだ。
「……早いな」
「当然でしょ。今日から特訓だよ」
結愛は大きなバッグを持ち上げて見せる。
「参考書も問題集も持ってきた。お菓子も」
「飲み物も用意してあるわ」
凛花は控えめに紙袋を示した。
青は少しだけ戸惑ったように二人を見たが、やがて小さく頷いた。
「……入ってくれ」
リビングに入ると、結愛はすぐに周囲を見回した。
「お、昨日よりさらにマシじゃん」
「朝、少し片づけたの?」と凛花。
「……いや」
青は首を振る。
「そのままだ」
「そっか。まあ十分十分」
結愛は勝手知ったる様子で机の上を整え始める。
参考書、ノート、ペン、タイマー。三人分の席を自然と作るその動きは、まるで以前から何度もこうしてきたかのようだった。
凛花は台所へ行き、持ってきた水筒を並べる。
「温かいお茶よ。カフェイン少なめ」
「さすが凛花ちゃん」
「集中力を維持するためには重要だから」
青はその様子を少し離れた場所から見ていた。
誰かが部屋の中を動き回る音。紙袋の擦れる音。食器が触れ合う小さな音。すべてが、長いあいだ失われていたものだった。
「青、ぼーっとしてないで座りな」
結愛が椅子を引く。
「時間もったいないよ」
青は無言で席についた。
凛花がノートを開く。
「まずは苦手分野の確認から。過去問を解きながら思い出す形がいいわ」
「……わかった」
問題集を開く。
最初の数分は、頭がうまく働かなかった。文字を追っても意味が入ってこない。だが、二人が隣にいるという事実だけが、かろうじて思考をつなぎ止めてくれた。
やがて、少しずつ感覚が戻ってくる。
数式が意味を持ち始める。論理がつながる。手が自然と動く。
時間が経つのを忘れるほどではない。けれど、確かに前へ進んでいる実感があった。
「はい、休憩ー!」
突然、結愛が声を上げた。
青は驚いて顔を上げる。
「まだ三十分しか——」
「だからだよ。詰め込みすぎると効率落ちるって」
凛花も頷く。
「結愛ちゃんの言う通り。短い休憩を挟んだほうが集中は続くわ」
結愛はお菓子の袋を開ける。
「はい、糖分補給」
青はしばらくそれを見ていたが、小さく礼を言って受け取った。
甘い味が、妙に鮮明に感じられる。
昼になると、三人で簡単な食事を取った。コンビニのおにぎりとスープ。特別なものではないが、誰かと一緒に食べるというだけで違っていた。
午後も勉強は続く。
二日目になるころには、三人のあいだに自然なリズムが生まれていた。
結愛が時間を管理し、凛花が内容を調整し、青が問題を解く。
ときどき小さな会話が生まれ、ときどき沈黙が訪れる。
その沈黙は重くなかった。
ただ同じ場所にいるというだけの、穏やかな静けさだった。
夕方、窓の外が赤く染まるころ、結愛が背伸びをした。
「はー、つかれた!」
「今日はここまでにしましょう」
凛花もノートを閉じる。
青は少しだけ遅れて手を止めた。
体は確かに疲れていたが、昨日までのような虚無の疲れではない。何かをしたあとの、普通の疲労だった。
「……ありがと」
思わず言葉が出る。
二人は同時に顔を上げた。
「どういたしまして」
結愛が笑う。
「まだ終わりじゃないけどね」
凛花も微笑んだ。
「明日が本番よ」
受験当日の朝。
東都大学の門の前には、すでに多くの受験生が集まっていた。緊張した表情、参考書を最後まで確認する姿、保護者と話す声。冷たい空気の中に、独特のざわめきが漂っている。
三人は少し離れた場所で顔を合わせた。
「いよいよだね」
結愛が言う。
「ええ」
凛花が静かに頷く。
青も周囲を見渡し、短く答えた。
「……ああ」
恐怖はなかった。
緊張はある。だが、それは逃げ出したくなる種類のものではない。
受験票を確認し、時計を確認し、筆記用具を確認する。
やがて試験開始の案内が流れた。
「じゃあ、またあとで」
結愛が手を振る。
「健闘を祈るわ」
凛花が言う。
三人はそれぞれの建物へ向かって歩き出した。
二日間の試験は、長く、過酷だった。
集中し続ける時間。問題用紙の音。時計の針の動き。手の震え。肩の重さ。
すべてが終わったとき、体の芯から力が抜けた。
再び集まった三人は、しばらく言葉も出なかった。
「……つかれたー」
最初に声を出したのは結愛だった。
「長かったわね」
凛花も肩を回す。
青は深く息を吐いた。
「……ああ」
結愛が急に顔を上げる。
「打ち上げ行きたいけど……」
「今日は無理ね」
凛花が即答する。
「同意だ」
青も頷いた。
三人は顔を見合わせ、そして小さく笑った。
「じゃ、また今度にしよ」
結愛が言う。
「ええ、また今度」
凛花も同意する。
その「また」があることが、なぜかとても大切に思えた。
夕暮れの空の下、それぞれの帰路へ向かう。
青は少しだけ立ち止まり、二人の背中を見送った。
胸の奥には、まだ痛みが残っている。陽葵を失った事実は何も変わっていない。空洞も消えてはいない。
それでも。
昨日までとは違っていた。
彼の時間は、確かに動き始めている。
冬の空気はまだ冷たい。
だが、その奥に、かすかな春の気配が混ざり始めているような気がした。




