第67話 陽葵の手紙
第67話 陽葵の手紙
二次試験が終わってから数日が過ぎていた。
学校は事実上の自由登校になり、教室には来る者も来ない者もいる。進路が決まった者は浮き立ち、まだ結果待ちの者は落ち着かず、どこかそわそわとした空気が校内を満たしていた。
窓の外では、まだ冷たい風に混じって、わずかに春の匂いがしていた。
氷凪青は、その匂いを感じながらも、何も感じていなかった。
机に肘をつき、ただ前を見ている。黒板の文字も、教室のざわめきも、まるで薄い膜を隔てた向こう側の出来事のようだった。
「青先輩」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
教室の入口に、椎名紬が立っていた。
彼女は制服の袖を強く握りしめ、こちらを見ている。その目は、明らかに腫れていた。
「……椎名」
青は立ち上がる。
「少し、いいですか」
紬の声は、かすれていた。
青は何も言わず頷き、教室を出る。
廊下には誰もいなかった。放課後前の中途半端な時間で、校舎は妙に静まり返っている。
紬は数歩進んだところで立ち止まり、背中を向けたまま動かなくなった。
そして、震える手で鞄の中を探る。
取り出されたのは、白い封筒だった。
丁寧に保管されていたのか、折れ一つない。だが、端の部分だけが、何度も触れられたようにわずかに柔らかくなっていた。
紬はそれを両手で持ち、振り返る。
「……ごめんなさい」
声が震えている。
「ずっと……だまっていて」
青は何も言わず、ただ封筒を見つめた。
「陽葵ちゃんから……青先輩の大学受験が終わってから、渡してくれって……言われました」
空気が止まる。
青の視界が、ゆっくりとその封筒だけに絞られていく。
自分の名前が書かれている。
見慣れた、柔らかい丸い字。
陽葵の字だった。
胸の奥が、鈍く痛む。
青は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が震えていることに、自分で気づく。
封筒を受け取った瞬間、そこに確かな重みがあることを知る。
紙一枚のはずなのに、異様に重い。
「……ありがとう」
自分の声が、遠くから聞こえるようだった。
「今まで……保管してくれて」
言葉が続かない。
「……辛かっただろうに」
紬の肩が震える。
「はい……」
顔を伏せたまま、涙が床に落ちた。
「ひまりちゃんは……幸せだったと思います……」
その言葉に、青の胸の奥が深くえぐられる。
何かを言おうとして、しかし言葉は出てこなかった。
ただ、小さく頷く。
「……そうか」
それだけだった。
青は封筒を胸のポケットに入れ、踵を返した。
「青先輩……」
呼び止める声。
振り返らない。
立ち止まることもできない。
止まれば、開けてしまいそうだった。
まだ、読む覚悟がない。
それでも足は速くなる。
廊下を抜け、階段を下り、校舎を出る。
外の空気は冷たかった。
それでも、何も感じない。
ただ、胸のポケットに入れた封筒だけが、異様に存在を主張していた。
帰り道の記憶はほとんど残っていなかった。
電車に乗ったはずだ。
改札を通ったはずだ。
歩いたはずだ。
気づけば、自宅の前に立っていた。
鍵を開け、扉を押す。
静寂。
何の音もしない。
「……ただいま」
返事はない。
当然だ。
それでも、言ってしまう。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
陽葵の部屋の前を通る。
扉は閉まったまま。
以前なら、物音や気配があったはずなのに、今はただの壁の一部のように静かだった。
青は自室に入り、机の前に座る。
胸ポケットから封筒を取り出し、机の上に置いた。
陽葵の字。
「お兄ちゃんへ」
その一言だけで、胸が締め付けられる。
すぐには触れなかった。
手を伸ばし、止める。
深く息を吸う。
吐く。
もう一度、吸う。
指先が震える。
「……大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
封を切る。
中から、便箋が一枚。
折り目を開く。
見慣れた文字が並んでいた。
青は、ゆっくりと読み始める。
――――――――――
お兄ちゃんへ
これを読んでいる頃には、
私はもうお兄ちゃんのそばにいないと思います。
直接言うのは恥ずかしいから、
手紙にしました。
ちゃんと読んでね。
途中でやめちゃダメだよ。
---
お兄ちゃんが女の子の友達を連れてきた時、
本当にびっくりしました。
お兄ちゃんって、勉強以外のことに
あまり興味ないと思ってたから。
ちょっとだけ、嫉妬しました。
……ほんのちょっとだけだよ?
でも、お兄ちゃんが楽しそうにしてるのを見て、
すごく安心しました。
ああ、ちゃんと学校生活してるんだなって。
たぶん、あの二人はお兄ちゃんのこと好きだと思います。
だから、大切にしてあげてください。
紬ちゃんともたくさんお話しできて楽しかったです。
優しくて、可愛くて、いい子だね。
私も元気だったら、
学校であんな友達ができたのかなって思いました。
……でも、ちょっとだけ羨ましかった。
紬ちゃんもきっと、お兄ちゃんのこと好きです。
女のカンです。
お兄ちゃんが誰かのものになるの、
ちょっとだけ嫌だなって思いました。
ごめんね、妹なのに。
---
夏の外出で海に行きたいって言ったの、
わがままでごめんなさい。
もう、水着なんて着ることないと思ったから。
でも、お兄ちゃんは何も言わずに
私の体のことを気遣ってくれて、
すごく嬉しかったです。
注射のあとを気にしてくれたんだよね。
ありがとう。
---
夏祭りの最後にキスしたこと、覚えてる?
本当は、口にしたかったです。
でも、お兄ちゃんの初めては
私じゃない方がいいと思ったから、
ほっぺにしました。
あの時、すごくドキドキしました。
きっと、お兄ちゃんもしてたよね?
……してなかったら、ちょっと悲しいです。
---
お兄ちゃんが彼女さんを連れてきた時、
最初は本当にびっくりしました。
でも、すぐに嘘だって分かりました。
だって、お兄ちゃん、
すごくよそよそしかったから。
私に心配させないように
頑張ってくれたんだよね。
試すみたいなことしてごめんなさい。
でも、すごく嬉しかったです。
---
お兄ちゃんの高校の文化祭、
本当は行きたかった。
お兄ちゃんのクラス、見てみたかった。
お兄ちゃんが学校でどんなふうに過ごしてるのか、
知りたかったです。
---
年末年始に外出できたのは、
病院の先生に無理を言いました。
もう、長くないって分かってたから。
お兄ちゃんには受験があるから、
ぎりぎりまで黙っててもらいました。
絶対、知ったら
受験なんて行かないって言うと思ったから。
お兄ちゃんは、そういう人だから。
---
年明けてから、
お兄ちゃんと距離を置いたのは、
受験のためでもあるけど、
本当は違います。
体がどんどん変わっていくのを
見られたくなかった。
お兄ちゃんの前では、
ずっと可愛い妹のままでいたかったんです。
嫌なこと言ってごめんなさい。
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと話したかった。
---
医者になるのが間に合わなかったなんて、
絶対に思わないでください。
お兄ちゃんはこれから、
たくさんの人を助ける人になります。
だから、私の分まで、
たくさんの命を救ってあげてください。
---
そして――
ちゃんと幸せになってください。
一人で生きていこうとしないでね。
お兄ちゃんが笑っていると、
私はすごく嬉しいです。
---
今まで本当にありがとう。
ずっと、ずっと大好きでした。
世界で一番、
大好きなお兄ちゃんです。
また会えたら、
いっぱいお話ししようね。
そのときは、
ちゃんと抱きしめてください。
約束だよ。
---
お兄ちゃんの妹で、
本当に幸せでした。
ありがとう。
大好きだよ、お兄ちゃん。
陽葵
――――――――――
文字が滲む。
視界が歪んでいるのだと気づくまで、少し時間がかかった。
涙だった。
ぽたり、と便箋に落ちる。
インクがにじむ。
「……ひまり……」
声が震える。
胸の奥に、今まで押し込めていた何かが、限界まで膨れ上がる。
息がうまくできない。
喉が締まる。
肩が震える。
便箋を持つ手に力が入り、紙がくしゃりと音を立てた。
「ひまりの……ばか……」
掠れた声。
「わかっていたなら……言ってくれよ……」
堰を切ったように涙が溢れ出す。
机に突っ伏す。
声にならない嗚咽が漏れる。
肩が大きく上下する。
胸が痛い。
息が苦しい。
何もかもが遅すぎる。
もう、どこにもいない。
返事はない。
それでも、何度も名前を呼びそうになる。
青は便箋を胸に抱きしめた。
まるで、そこに陽葵がいるかのように。
しかし、抱きしめても、温もりはない。
ただ紙の冷たさだけが伝わる。
それが現実だった。
どれだけ時間が過ぎたのか、わからない。
気づけば、部屋は暗くなっていた。
窓の外には夜が降りている。
机の上の便箋だけが、白く浮かび上がっていた。
青はゆっくりと顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった視界の向こうに、陽葵の部屋の扉が見えた。
立ち上がる。
ふらつく足取りで廊下に出る。
扉の前に立つ。
手をかける。
少し迷い、開けた。
部屋の中は、時間が止まったままだった。
整えられたベッド。
本棚。
ぬいぐるみ。
机の上の小物。
どれも、陽葵が戻ってくるのを待っているかのように、そのままの形で残っている。
しかし、もう戻らない。
青はゆっくりと部屋の中に入り、ベッドの端に座った。
手紙を胸に抱く。
「……ひまり」
声はほとんど音にならなかった。
答えはない。
静寂だけがある。
それでも、しばらくそのまま座り続けた。
やがて、窓の外がわずかに明るくなり始める。
夜が明けていた。
新しい朝が来る。
陽葵がいないまま。
青は、ただ手紙を抱きしめたまま、動かなかった。




