第68話 報告
第68話 報告
朝の光で目が覚めた。
眩しさに目を細め、天井を見る。見慣れた自室の天井ではない。少し低く、白い塗装がところどころ剥げている。
氷凪青は、ゆっくりと瞬きをした。
ここがどこか理解するまで、数秒かかった。
陽葵の部屋だった。
ベッドの端に座ったまま、背を壁にもたれさせて眠っていたらしい。首筋が固まったように痛む。体も重い。ほとんど眠れていないのだろう。
胸元に、何かがある。
視線を落とす。
便箋。
陽葵の手紙だった。
昨夜、読み終えたあと、抱きしめたまま離せなかったのだと、ようやく思い出す。
指先でそっと触れる。紙は少ししわになっている。涙で濡れた部分は乾いて、硬くなっていた。
「……」
声は出なかった。
ただ、息だけがゆっくりと漏れる。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中のものを淡く照らしていた。
ぬいぐるみ。本棚。机の上の文房具。壁に貼られた小さな写真。
すべて、陽葵がいた頃のまま。
時間だけが進んでいるのに、ここだけが取り残されているようだった。
青はゆっくりと立ち上がる。足元がふらつく。手紙を丁寧に折り直し、胸ポケットに入れた。
部屋を出る前に、一度だけ振り返る。
「……行ってくる」
返事はない。
それでも、言葉は自然に出た。
廊下に出る。家の中は静まり返っていた。時計の秒針の音だけが、妙に大きく響く。
洗面所で顔を洗う。冷たい水が頬に触れて、ようやく現実に戻ってくる。
鏡に映った自分の顔は、ひどく疲れていた。目は赤く腫れ、無精ひげがうっすらと伸びている。
青は蛇口を閉め、タオルで顔を拭いた。
ふと、カレンダーが目に入る。
三月。
丸がつけられている日があった。
今日だ。
東都大学の合格発表日。
「……そうか」
他人事のように呟く。
胸の奥は、驚くほど静かだった。
緊張も、不安も、期待もない。
ただ、事実として認識しただけ。
陽葵がいない現実の前では、どんな結果も意味を持たないように思えた。
青は自室へ戻る。
机の前に座り、ノートパソコンを開いた。
画面には東都大学の公式サイト。
合格発表はインターネットでの掲示。
発表時刻まで、あと数分。
部屋は静まり返っている。
隣の部屋には誰もいない。
本来なら、真っ先に報告するはずだった相手も、いない。
秒針の音だけが響く。
スマートフォンが震えた。
結愛からのメッセージ。
『もうすぐだね』
続いて凛花。
『見ているわ』
青は返信しなかった。ただ通知を消し、再び画面を見る。
発表時刻になった。
ページを更新する。
一瞬、白い画面。
そして、合格者番号一覧が表示された。
青は自分の番号を入力して検索する。
結果が表示される。
自分の番号。
そこにあった。
「……あった」
声は小さい。
次に、凛花と結愛の番号も確認する。
どちらも合格。
「……そうか」
実感はない。
ただ、事実として理解する。
スマートフォンが再び震える。
『受かった!!!』
結愛から。
続いて凛花。
『三人とも合格よ』
青は短く返信する。
『……ああ』
それ以上の言葉は出てこなかった。
窓の外を見る。
空は薄く晴れていた。
「……ひまりが、喜ぶな」
ぽつりと呟く。
誰もいない部屋に、その声だけが落ちた。
青は立ち上がる。
机の上に用意してあった花束を手に取る。
昨日のうちに買っておいたものだった。
胸ポケットに手紙を入れる。
家を出る。
外の空気は冷たいが、どこか柔らかい。
墓地は自宅から歩いて行ける距離にある。
坂を上り、静かな道を進む。
人通りはほとんどない。
鳥の声だけが聞こえる。
やがて、墓地の入口が見えてきた。
青はゆっくりと中に入る。
見慣れた墓石の前で立ち止まる。
まだ新しい石。
そこに刻まれた名前。
氷凪陽葵。
青はしゃがみ込み、花を供えた。
線香に火をつける。煙が細く立ち上る。
しばらく、何も言わずにその煙を見つめた。
胸ポケットから手紙を取り出し、石の前に置く。
「……受かった」
静かな声。
「東都大学……医学部」
少しだけ間を置く。
「……約束、守れた」
拳を握る。
「これから……医者になる」
喉が詰まる。
「ひまりが言った通り……たくさん、助ける」
視界が滲む。
しかし、涙は落ちなかった。
「……だから」
深く息を吸う。
「……見ててくれ」
答えはない。
それでも、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
風が吹く。
煙が揺れ、空へと溶けていく。
青はゆっくりと立ち上がった。
空を見上げる。
雲が切れ、青空が広がっている。
眩しくて、目を細める。
胸ポケットに手紙を戻す。
振り返り、歩き出す。
来たときよりも、わずかに足取りが安定していた。
完全に前を向けたわけではない。
それでも、止まってはいない。
春の風が、背中を押していた。




