第69話 遅れてきた想い(1)
第69話 遅れてきた想い
三月も半ばに差しかかり、冬の空気の奥に、ほんの少しだけ春の匂いが混じり始めていた。
東都大学の合格発表から、数日。
校内には、受験を終えた三年生たちの、どこか浮き足立った空気が流れていた。教室では進学先の話が飛び交い、廊下では卒業式の話題が聞こえる。解放感と名残惜しさが入り混じった、三月特有のざわめきだった。
その日も午前中に卒業式の練習があり、生徒たちは体育館で長い話を聞かされ、礼の角度や起立と着席のタイミングを揃えさせられていた。
練習が終わったあと、教室へ戻る者もいれば、友人たちと購買へ向かう者もいた。笑い声があちこちで弾けていた。
そんな校内の喧騒から少し離れた図書室で、氷凪青は窓際の席に一人、座っていた。
机の上には、読みかけの参考書が一冊置かれている。だが、ページはしばらく前からめくられていなかった。
青はただ、窓の外を見ていた。
グラウンドの向こうにある木々の先端には、まだ芽吹きの気配しかない。けれど、色のない枝先を見ていると、もうすぐ季節が変わるのだとわかる。
「……終わったんだな」
誰に聞かせるでもなく、青は小さく呟いた。
受験が終わった。
長く、ただそれだけを見て走ってきた。眠気を削って問題集を解き、模試の結果と向き合い、何度も志望校判定を確認して、そのたびに足りないものを埋めてきた。
その理由は、最初から一つだった。
医者になるため。
陽葵を助けるため。
だが、その目標の中心にいたはずの存在は、もうこの世にはいない。
東都大学に受かったときも、嬉しいというより先に、胸の奥にぽっかりと空いた穴を自覚した。
勝ち取ったはずの未来が、どこか現実味を持たなかった。
墓前で報告したあの日、確かに自分は前に進こうと決めた。生きることを選ぼうと決めた。
それでも、学校のこんな何でもない時間に、不意に立ち止まってしまう瞬間はある。
「……ひまり」
その名前を口にすると、図書室の静けさの中で、その二文字だけがやけに鮮明に響いた。
陽葵なら、きっと言っただろう。
『お兄ちゃん、ほんとに受かったんだね! すごい!』
少し大げさなくらい目を輝かせて、まるで自分のことみたいに喜んだはずだ。
そう思うと、胸の奥が静かに痛んだ。
痛みにはもう慣れたはずなのに、慣れたから消えるわけではなかった。
青は視線を落とし、開かれたままの参考書の文字列をぼんやりと追った。しかし意味は頭に入ってこない。
自分でも珍しいと思う。
何もせず、ただ時間をやり過ごしているだけの自分。
そのときだった。
図書室の扉が少し勢いよく開いた。
静謐な空間に似つかわしくない足音が、ぱたぱたと近づいてくる。
「青! いた!」
顔を上げると、そこには黒金結愛が立っていた。
肩で息をしていて、どうやらあちこち探し回っていたらしい。いつも通り明るいはずの顔に、少しだけ不満そうな色が混じっている。
「やっと見つけたよ。もう、スマホ見てよね。ずっと連絡してたのに」
青はポケットからスマホを取り出した。画面には結愛からのメッセージが何件か届いている。
「……悪い」
「悪い、じゃないって。教室にもいないし、生徒会室にもいないし、屋上にもいないし、もしかして保健室かなって思って、いろいろ探したんだから」
「そんなに探したのか」
「探したよ」
結愛はむっとした顔のまま言ったあと、ふっとその表情を和らげた。
「……ていうか、珍しいね。青がぼーっとしてるなんて」
青は一瞬だけ視線を外し、それから結愛へ戻した。
「そうかもな」
「そうかもな、って。なんか今日、ちょっと変」
そう言われて、青はわずかに息を吐いた。
変、か。
自分でもそう思う。
受験が終わった今、自分の中で張り詰めていたものが、急に行き場を失ったような感覚がある。勉強しているときは考えずに済んだことが、今は隙間から入り込んでくる。
陽葵のこと。これからのこと。自分が進む先に、もうあの笑顔はいないという事実。
「……少し、考えごとをしてただけだ」
「そっか」
結愛はそれ以上、無理に踏み込んではこなかった。
そういうところが、彼女らしいと青は思う。
明るくて、人懐こくて、距離感が近いように見えて、実際には人の心の境界線に敏感だ。踏み込んでいいところと、そうではないところを、本能的に見分ける。
しばらくの沈黙ののち、青は改めて結愛を見た。
「それで、結愛。どうした」
名前を呼ばれて、結愛の肩がぴくりと動いた。
青がまっすぐこちらを見る。その静かな眼差しに射抜かれたような気がして、結愛はほんの少しだけ視線を泳がせる。
(な、何その目……)
ただ呼ばれただけなのに、心臓が変に跳ねた。
もともと整った顔立ちなのは知っている。知っているのに、青はそういう自覚が薄いから、余計にたちが悪い。
「え、えっと……」
結愛は持っていた紙袋を胸の前でぎゅっと抱え直した。
本当はもっと自然に渡すつもりだった。
軽く笑って、「はいこれ」くらいのテンションで。
なのに、いざ本人を前にすると、喉が少し渇く。
「遅くなっちゃったんだけど……その……これ」
紙袋を差し出す。
「バレンタインの、プレゼント」
青は一瞬きょとんとしたように目を瞬かせ、それから静かに受け取った。
「……ありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、結愛の胸がじわりと熱くなる。
受け取ってくれた。
ちゃんと、受け取ってくれた。
「開けていいか」
「えっ、ここで?」
「まずいか」
「まずいっていうか……いや、まずくはないけど……」
結愛はあたふたと手を振った。
「手作りだから、その、なんか恥ずかしいっていうか……」
「手作り?」
「う、うん」




