第69話 遅れてきた想い(2)
第69話 遅れてきた想い
青は袋の中身を丁寧に取り出した。透明なラッピングの中には、小さなカップケーキがいくつか並んでいる。チョコ生地の上に、少し不揃いながらも一生懸命に飾りつけられたチョコレートやナッツ。ひとつだけ、小さなハート型のトッピングが乗っていた。
青はそれを見て、しばらく言葉を失った。
「……すごいな」
「え」
「これ、全部……結愛が作ったのか」
「そ、そうだけど……」
あまりまじまじと見られると余計に恥ずかしい。
結愛は頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。
「そんなに見ないでよ……」
「見てはいけないものなのか」
「そういう意味じゃないけど」
青はラッピング越しに、壊れ物を扱うような手つきでカップケーキを眺めていた。市販品のように完璧ではない。クリームの絞り方も少し不揃いだし、チョコペンの線もところどころ曲がっている。
だが、だからこそ伝わってくるものがある。
誰かのために時間をかけて作ったもの特有の、温度のようなもの。
それが青にははっきりわかった。
「……おいしくないかも、だから」
結愛が小さな声で言った。
普段の彼女からは想像もつかないような、弱気な言い方だった。
青は顔を上げた。
「そんなことはない」
「いや、まだ食べてないじゃん」
「食べなくてもわかる」
「なんで」
「結愛が一生懸命作ってくれたものが、おいしくないわけない」
静かな口調で、青はごく当然のことのように言った。
結愛は完全に固まった。
(な、なにそれ……)
その一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
こんなの、ずるい。
わざとじゃないのがわかるから、なおさらずるい。
「……ありがとう」
結愛はようやくそれだけ言って、少しだけ俯いた。
青はラッピングを戻しながら、ふと尋ねる。
「受験が終わるまで待っていたのか」
「うん。だって、二月に渡したら、気を遣わせるかなって思って」
「気は遣わない」
「青はそうでも、私が気を遣うの」
「そうか」
「そう。あと……いろいろ、あったし」
その言葉の最後は、少しだけ弱くなった。
青には何を指しているのか、説明されなくてもわかった。
陽葵のことだ。
結愛も、あの時間を知っている。
青が壊れそうになっていたことも。
「……悪かった」
「え?」
「待たせた」
結愛は目を見開いたあと、慌てて首を振った。
「そんなの、謝らないでよ。私が勝手に待ってただけなんだから」
「それでもだ」
青はそう言って、袋を机の上にそっと置いた。
その仕草が妙に丁寧で、結愛は胸のあたりがまた落ち着かなくなる。
少しでも雑に扱われたら悲しかっただろう。でも、青はそうしなかった。まるで大事なもののように扱ってくれている。
その事実だけで、今日ここまで持ってきてよかったと思えた。
結愛は照れ隠しのように、少し明るい声を出した。
「ていうかさ、青ってこういうの、いっぱいもらってそうだよね」
「こういうの?」
「バレンタイン。チョコとかプレゼントとか」
「いや」
「いや、って。絶対嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「だって青、普通にモテるじゃん」
「そうでもない」
「そうでもあるの」
結愛は半ば呆れたように言った。
「自覚ないだけで、青ってかなり目立つし、顔いいし、背高いし、勉強もできるし」
「顔は関係ないだろ」
「あるの」
「そうか」
「そうです」
きっぱり言い切ると、青は少しだけ困ったように黙った。
結愛は小さく笑ってから、改めて聞く。
「で、ほんとは? バレンタイン、初めてじゃないでしょ?」
青はほんの一拍、間を置いて答えた。
「……初めてだ」
「え?」
「受け取ったのは」
結愛はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「いやいや、そんなわけ……」
「ある」
「だって今までだって、何人も渡そうとしてきたでしょ?」
「かもしれないが、受け取ってない」
「なんで?」
青は窓の外へちらりと視線を向け、それから静かに言った。
「気になる人以外からは、受け取らないようにしていた」
図書室の空気が、一瞬で変わった気がした。
結愛の心臓が、どくん、と強く鳴る。
「……え」
その意味を理解するまで、少し時間がかかった。
今、青は何と言った。
気になる人以外からは、受け取らない。
ということは。
ということは、今、自分のものを受け取ったということは。
(うそ……)
頬が一気に熱を持つ。
頭の中が少し真っ白になる。
キスのことがよぎった。
あのときも、自分にとっては忘れられない出来事だった。青にとっても初めてだったのだと知ったとき、胸がいっぱいになった。
そして今度は、バレンタインまで。
(私、青の初めてばっかり……?)
そんな考えが浮かんでしまい、余計に顔が熱くなる。
結愛はなんとか平静を装おうとして、けれど上手くいかず、少し掠れた声で尋ねた。
「……それって、私が……気になるってこと?」
青はすぐには答えなかった。
恋愛の意味での「好き」を、彼はまだきちんと整理できていない。そもそもそれを考える余裕すら、今の自分には多くない。
それでも、結愛が自分にとって特別な位置にいることは、否定できなかった。
何度も助けられた。
明るさに救われた。
何も言わずとも、近くにいてくれた時間があった。
「……結愛には、いつも助けられてきた気がする」
青は静かに言った。
「それに、これからも……」
そこで言葉が途切れる。
自分でも、その先をどう言えばいいのかわからなかった。
だが、その不完全な言葉のほうが、むしろ本音に近かった。
これからも、近くにいてほしい。
少なくとも、完全にそう思っている自分がいた。
結愛は目を見開いたまま、言葉を失っていた。
これからも。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
告白ではない。はっきりした返事でもない。
でも、拒絶ではない。
むしろ、青の口から「これからも」なんて未来を含む言葉が出てきたこと自体が、結愛には信じられないほど嬉しかった。
思わず何か返そうとした、そのときだった。
図書室の入口のほうから、また別の足音が近づいてきた。
「あ、青先輩! 見つけました!」
明るく弾む声。
振り向くと、椎名紬が小走りでこちらへ来るところだった。
柔らかな髪を揺らしながら、少し息を弾ませている。
「スマホ見てくださいよー。全然返事来ないから、探しちゃいました」
その台詞に、結愛がすかさず口を挟む。
「それ、私もさっき言った」
「あ、黒金先輩もですか?」
「うん。青、ほんとに見ないんだもん」
紬は青の前まで来て、そこでふと机の上に置かれた袋に気づいた。そして、その中身にも。
「あっ」
小さく声を漏らした紬の表情を、結愛は見逃さなかった。
青はそんな二人の空気に気づいているのかいないのか、いつも通りの調子で言う。
「悪い。ぼーっとしてた」
「青先輩がぼーっとって、珍しいですね」
「さっき私も同じこと言った」
「ほんとですか?」
「ほんと」
まるで示し合わせたみたいに同じことを言っていたのがおかしくて、紬はくすっと笑った。結愛もつられて少しだけ笑う。
そのやわらかな空気の中で、紬は小さく息を整え、それから鞄の中を探った。
「えっと、実は私も……渡したいものがあって」
取り出したのは、小さくラッピングされた箱だった。淡い色のリボンで結ばれていて、紬らしい優しい雰囲気の包み方だ。
「はい。これ、私からです」
「……これも、バレンタインか」
「はい」
紬は少し照れたように笑った。
「渡すタイミング、ずっと迷ってて。受験の邪魔になるのも嫌でしたし……その、いろいろあったので」
やはり、その言葉の奥には陽葵のことがある。
紬は陽葵と親しかった。




